一遍上人をたずねて⑦
一遍上人が再び出家し、家も家族も捨てて遊行に出るのは32歳である。まず向かったのは信濃の善光寺。
善光寺は歴史が古く、奈良の東大寺よりも古い。御本尊の一光三尊阿弥陀如来は日本最古の仏像と言われていている。一遍上人が生きた鎌倉時代にはすでに善光寺信仰は広まっており、源頼朝や北条一族が厚く信仰し、多くの人が参拝に訪れる寺院でもあった。
この善光寺が行っていたのがお札配りである。一遍上人は、遊行において「賦算」(時宗において、「南無阿弥陀仏、決定往生六十万人」と記した念仏札を配る行為)を行うことに全てを注いだ。遊行とは賦算を行うための旅であったと言ってもいい。
賦算は善光寺でヒントを得たみられる。いや、善光寺のお札配りを真似ていると言える。
善光寺から伊予松山に帰り、窪寺、岩屋寺で修験道を行なった後、一二七四年三十六歳の時に大阪の四天王寺で得度を受けた直後から賦算を開始する。再出家にあたって、得度と賦算の機会を見計らっていたものと思われる。
賦算については謎が多く、念仏札は、横2センチ、縦8センチほどの小さな紙に「南無阿弥陀仏、決定往生六十万人」と書かれているものであると言うこと以外、当時どのように作られていたかについては知られていない。
とは言え、賦算のための旅である。道中、配布の合間に念仏札を作っていたに違いなく、紙の調達はどうしたのか。手書きだったのか、木版だったのか。その資金はどうしたのか。全くわからない。
そこで私は、一遍上人の気持ちに少しでも近づくために、自ら念仏札を作ってみることにした。以下の画像がそれである。
クオリティは全く本物に及ばないものの、どこか一遍上人の気持ちに肉薄することはできたと自負している。
ちなみに、一遍上人は、念仏札を生涯に二百五十万千人に配布したと言われている。これについては、二十五万千とも言われ、計算方法がわからないらしい。
ともかく、これだけの数を配ろうと思うと、毎日作っていなければならなかったはずであり、手書きではなかなか難しいと思われる。木版であったことは推測されている。しかし、それが、私が製作したように一つのサイズで、一つ一つ紙を切って判押ししていたのか。いくつも彫られたもので一気に刷って切っていたのか。ここがわからないところである。
また、本人が作っていたのか。ボランティアスタッフのような人がいたのか。誰かに発注していたのか。わからない。そして、札をただ配っていたのか。ひょっとしたら売る、もしくは寄付の返礼として渡したものなのか。そのあたりもわからない。
ただで配っていたというのが定説ではあるが、では、どうやって遊行の資金を得ていたのか。パトロンの存在など。わからないことだらけである。