花火の町。徳島県小松島市。グーグルマップをゆく㉚
グーグルマップ上を適当にタップして、ピンが立った町を空想歴史散策する、グーグルマップをゆく。今回は、徳島県小松島市。
京都に仁和寺という寺院がある。仁和四年(八八八年)の創建の真言宗御室派の総本山で、中世期には荘園がいくつか持ち、小松島市はそのうちの一つであった。
仁和寺の所在は現在京都市左京区御室となっているが、元々は小松郷と言い、小松島市の名前はそれに由来すると言われている。
小松島市の立江町に立江八幡神社という神社がある。いつの創建かは不詳であるが、慶長十六年(一六一一年)に小笠原兼幸によって再建された。小笠原兼幸は、天文十九年(一五五〇年)武田信玄によって紀伊国に追われ、阿波の三好氏の招きで小松島市にやってきた小笠原長時の嫡男で、立江城を築城する。
源義経が平家追討の際、愛妾の静御前とともに武運祈願のために立ち寄ったと言われている。八幡宮は八幡神を祀っており、源頼朝、義経兄弟の祖でもある源義家(八幡太郎)によって武運の神と崇拝されており、小笠原氏は甲斐源氏の末裔であったため立ち寄ったのだろう。
立江八幡神社は四国の花火発祥の地とされており、戦国期から江戸期にかかけて阿波藩では軍用として火薬が製造され、火薬庫もあった。江戸期に入り、平和な世になると軍用であった火薬は庶民の花火として使用されるようになる。
吹筒花火という、火薬を詰めた竹筒を約7mのほたてに取り付け、その竹筒の先から火の粉が飛び散る花火があり、これを農村青年たちが立江八幡神社礼儀式で奉納花火として納めたことにより、四国の花火発祥とされることになったらしい。吹筒花火は小松島市無形民俗文化財に指定されている。
小笠原氏や源義経といった武将にゆかりがあることから、吹筒花火を奉納しようということにでもなったのであろう、また、小笠原氏が花火の製造技術を氏子に習得させており、明治期に書かれた秘伝書が現存しているというのが理由の一つであるらしいが、どうも後付け臭い。
花火の歴史は紀元前に遡り、古代インドやギリシャ、ローマなどで使われていた狼煙が始まりと言われているが、それは木に火をつけて煙を出したものにすぎず、火薬が発明されるのは七世紀の中国である。
日本における最も古い火薬の記録は、蒙古襲来時に「てつはう」という武器である。「てつはう」は、鉄や陶器でできた丸い容器に火薬を詰めて導火線で火をつけ爆発させるものであった。
当時の日本人はこれに相当驚いたらしいが、火薬が日本で使用されるのは、蒙古襲来よりもあとの火縄銃伝来以降である。蒙古襲来以後、当時の武士たちは「てつはう」のようなものを作ろうとは思ったのではないか?
戦場後には「てつはう」の残骸が残っているはずである。それをよく観察し、なんとか作ろうと試みたとしてもおかしくはない。火薬は、硝酸カリウム、硫黄、木炭を混ぜ合わせて作られる。しかし、当時の武士ではそれを分析することは困難だったのではないだろうか。
ともあれ、殺人道具が平和とともに人を幸せにするものに変わったことは喜ばしいことであり、小松島市は、現在も花火の生産量が西日本一とのことである。