キリストの十字架の犠牲と同化
更に加えて、聖餐の現場では「什一献金」や「食料援助」、「その他の捧げもの」が伴うが、資本主義的なキリスト教に汚染されたユーカリストでは「献金」だけがクローズアップされることに違和感を覚えてしまう。
同時に聖書は第一テモテ書5章17節で 「よく指導の任に当たっている長老は、二重に尊敬を受けるにふさわしいとしなさい。みことばと教えのためにほねおっている長老は特にそうです」と明記することも忘れていない。
「尊敬」は「τιμη」(ティミ)が使われており「謝礼金」「報酬」という意味だからだ。
それよりも大切なのは、終末論的な希望である。
同時に聖餐の現場では、自分自身を捧げること抜きに、誰が食し誰が飲むことができようか。
神に自分自身を捧げる根拠は、キリストのただ一度の犠牲である。
キリストの十字架の犠牲に与るならば (同化するならば)、キリストに似た存在になっていく、これこそ、聖餐における聖霊の力の発揮である。
聖餐における信仰の再確認
では何故、プロテスタントの聖餐式は執行回数が減少したのだろうか。歴史的に考察してみると、聖餐と愛餐の区別・分離が拡大したという経緯が考えられる。
このように聖餐と愛餐の分離は、礼拝における聖餐の簡素化に役立ったが、一方で、「集会の家」(domus ecclesiae) における家の諸教会の制度化に寄与し、聖餐と愛餐において、キリスト者同士の人格的な関係を捨象することになってしまったのではないか。
他方、聖餐の簡素化は、キリスト者間の自由な愛餐、食事会に道を開き、第一コリント書の聖餐と愛餐の混乱を解決したと考えられる。
さて、二世紀の古代教会では受洗者の陪餐は通例だったことは、ユスティノスも報告している。執事が欠席者のために聖餐を運んだほどである。
なお、古代教会の聖餐では「執事」と呼ばれる者たちがパンとぶどう酒と水を陪餐させ、「欠席者のために持ち去る」(第一弁明 65・ 5)こともあった。
そのような聖餐に対する恐怖心も、プロテスタント諸教会において、聖餐頻度の低下を招いたと思われる。
「ふさわしくないままで」 (αναξιως、アナクシオス)は「相応しくない態度(仕方)で」の他に「場違いの、間違った方法で」という意味であり、E.ケーゼマンは「不適当に」と訳している。
主のパンと杯をいただく人は(主の食卓に相応しいかという点では)もともと相応しくない者であるから、「自分を吟味する」とは「私の義は全部キリストにあるのか」の再確認でしかない。
キリスト者たちの犠牲
ちなみに、第一コリント書11:29の「からだ」(σωμα)の内容は、第一コリント書11:27 の「からだと血」 である。
聖書には確かに「ふさわしくないままで」と書いているが、それでは誰がどうやって、聖餐に「ふさわしい者」として与れるというのだろう。
ここでは聖餐と愛餐の混同、貧しい人々を考慮しない愛餐の私的乱用者が注意されているに過ぎない。
キリストに「ふさわしくないままで」来る者たちは、神に決して拒まれることはない。
イエスは、彼らに、彼らの犠牲によってイエスの犠牲にあずかるようにすすめ、教会を彼の犠牲へと導き、招くのである。
キリスト者の交わり
過去、典礼はシナクシス (言葉の祭儀) とユーカリスト(感謝の祭儀)という二部構成だったわけだが、シナクシスが終わった後、ミサは「解散です、行きなさい」を意味する言葉 (Ite, Missa Est)に由来している。
ユスティノス(約100年-約165年) は、最古の聖餐の定式を『第一弁明』で記述している。
古代教会の慣習では洗礼の後に、教会で共に祈ることを許されたのだろうが、「祈り終えると、私共は互いに平和の接吻を交わします」(第一弁明652)とある。
聖餐の前に平和の接吻が先行し、キリストにおける「和解」 が互いに存在していた。
正直、キリストとの交わり、他の諸聖餐共同体のキリスト者たちとの交わりに、制度的キリスト教会組織が共同陪餐を分裂させているなら、殆ど考慮せずにキリスト者同士で交わっていけば良い。
神との和解を基準にしながら、互いの和解、罪の赦し、償いなどが問題になるかもしれないが、──実際、キリストにおける交わりは互いに愛し合い、互いに赦し合うに至る。
キリストの受肉と聖餐の結合
聖餐の実践的な提言としては、
① 主の祈りを聖餐式の導入とする。
② 空腹に対応する愛餐の前に聖餐式を執行する。
シナシクシスでは主の言葉を食し、ユーカリストでは空腹以前のキリストの十字架の死を思い出す(αναμνησις、アナムニシス)ことで、聖霊の実を結ぶことになる。
同じように重要なのは、ユスティノスが「言葉によって受肉した救い主イエス・キリストが肉と血とを受けたのは、私共の救いのためであったという、このことに対応して、キリストから伝え受けた祈りの言葉で感謝した食物も、私共の受けた教えによれば、あの受肉したイエスの肉と血であり、私共の血肉はその同化によって養われるのです」(『第一弁明』66・2)と書き、キリストの受肉と聖餐を結び合わせている点である。
神の愛の故に、──神との交わりを理由として、キリストの受肉と聖餐を引き裂くことはできないし、キリスト者の私たちは既に互いに交わりを保っている。
キリスト者の聖餐と交わりを妨げるもの
他方、諸教派共同陪餐は困難を極めている。
① ローマ・カトリック教会とプロテスタント諸教会。
② ローマ・カトリック教会と正教会。
③正教会と非カルケドン派の諸教会。
さらに交わりの不在は、聖餐を司式する権利に関する紛争によることがある。
この権利は、ある人々が、監督されうるしかたで、行使するために与えられたキリストの委任につながっているか(またはつながってないか)ということにかかわっている。
混合物──水とぶどう酒
サマリア出身のユスティノスはパン、ぶどう酒に加えて水を聖餐で配布した。
しかし、シリア、或いはパレスチナで成立した『十二使徒の教訓』ではパンとぶどう酒だけになっている。地域的な差に過ぎないのだろうか。
キリストの十字架では、パンである体が裂かれ、血をぶどう酒として、更に水が流れたとあるからだろうか。
オーストリアの神学者 (イエズス会司祭)のJ.ユングマン(1889年-1975年)は『古代キリスト教会典礼史』(平凡社)の中で、以下のように述べている。
ここで目につくのは、パンとぶどう酒、それも「混合物」 (χραμα) と呼ばれるぶどう酒(水を含むぶどう酒のこと)が運ばれるだけではない。
これ以外に、特に水も挙げられている点である。
いずれにせよ、聖餐は礼拝の構造を明らかにするが、特に説教における神の恩寵が聖餐式の現場に実現されていかなければならない。