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VERITAS Seminarii[ヴェリタス・セミナリー]第四楽章「Eucharist〈2〉」


キリストの十字架の犠牲と同化


更に加えて、聖餐の現場では「什一献金」や「食料援助」、「その他の捧げもの」が伴うが、資本主義的なキリスト教に汚染されたユーカリストでは「献金」だけがクローズアップされることに違和感を覚えてしまう。

同時に聖書は第一テモテ書5章17節で 「よく指導の任に当たっている長老は、二重に尊敬を受けるにふさわしいとしなさい。みことばと教えのためにほねおっている長老は特にそうです」と明記することも忘れていない。 

「尊敬」は「τιμη」(ティミ)が使われており「謝礼金」「報酬」という意味だからだ。

それよりも大切なのは、終末論的な希望である。

[ルカの福音書 22:15,16]

イエスは彼らに言われた。「わたしは、苦しみを受ける前に、あなたがたと一緒にこの過越の食事をすることを、切に願っていました。
あなたがたに言います。過越が神の国において成就するまで、わたしが過越の食事をすることは、決してありません。」
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会 許諾番号4-2-3
[ホームページ]
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同時に聖餐の現場では、自分自身を捧げること抜きに、誰が食し誰が飲むことができようか。

[ローマ人への手紙 12:1,2]

ですから、兄弟たち、私は神のあわれみによって、あなたがたに勧めます。あなたがたのからだを、神に喜ばれる、聖なる生きたささげ物として献げなさい。それこそ、あなたがたにふさわしい礼拝です。
この世と調子を合わせてはいけません。むしろ、心を新たにすることで、自分を変えていただきなさい。そうすれば、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に喜ばれ、完全であるのかを見分けるようになります。
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神に自分自身を捧げる根拠は、キリストのただ一度の犠牲である。

キリストの十字架の犠牲に与るならば (同化するならば)、キリストに似た存在になっていく、これこそ、聖餐における聖霊の力の発揮である。

[コリント人への手紙 第二 3:18]

私たちはみな、覆いを取り除かれた顔に、鏡のように主の栄光を映しつつ、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられていきます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。
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聖餐における信仰の再確認


では何故、プロテスタントの聖餐式は執行回数が減少したのだろうか。歴史的に考察してみると、聖餐と愛餐の区別・分離が拡大したという経緯が考えられる。

一世紀に、すべての共同体で徹底された大きな変化、しかもミサの歴史を通して最大の変化と言えるもの──それは、実際の食事をなくし、エウカリスティア、すなわち感謝の祈りを前面に打ち出した祭儀形式へと、移行したことである......以前の「パンを裂く」、「主の晩餐」という名称は、もうほとんど使われなくなった。祭儀は感謝の祈りとなった。最初から存在していた感謝の祈り、たとえばマタ26:27の「ευκαριστησας(感謝を捧げて)が典礼の基本形式となったのである。
J.ユングマン著
『古代キリスト教典礼史』55
平凡社

このように聖餐と愛餐の分離は、礼拝における聖餐の簡素化に役立ったが、一方で、「集会の家」(domus ecclesiae) における家の諸教会の制度化に寄与し、聖餐と愛餐において、キリスト者同士の人格的な関係を捨象することになってしまったのではないか。

他方、聖餐の簡素化は、キリスト者間の自由な愛餐、食事会に道を開き、第一コリント書の聖餐と愛餐の混乱を解決したと考えられる。

さて、二世紀の古代教会では受洗者の陪餐は通例だったことは、ユスティノスも報告している。執事が欠席者のために聖餐を運んだほどである。

なお、古代教会の聖餐では「執事」と呼ばれる者たちがパンとぶどう酒と水を陪餐させ、「欠席者のために持ち去る」(第一弁明 65・ 5)こともあった。

死に至る薬(φαρμακον θανατου、ファルマコン・サナトゥー)と呼びたくなるようなものとなり、そして後になって、とくに四世紀以後、聖餐への参与が恐怖を起こさせたがゆえに、かなり減少した」
F.アルメン著
『聖餐論』139
日本キリスト教団出版局

そのような聖餐に対する恐怖心も、プロテスタント諸教会において、聖餐頻度の低下を招いたと思われる。

[コリント人への手紙 第一  11:27,28,29,30]

 したがって、もし、ふさわしくない仕方でパンを食べ、主の杯を飲む者があれば、主のからだと血に対して罪を犯すことになります。
だれでも、自分自身を吟味して、そのうえでパンを食べ、杯を飲みなさい。
みからだをわきまえないで食べ、また飲む者は、自分自身に対するさばきを食べ、また飲むことになるのです。
あなたがたの中に弱い者や病人が多く、死んだ者たちもかなりいるのは、そのためです。
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会 許諾番号4-2-3
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「ふさわしくないままで」 (αναξιως、アナクシオス)は「相応しくない態度(仕方)で」の他に「場違いの、間違った方法で」という意味であり、E.ケーゼマンは「不適当に」と訳している。

主のパンと杯をいただく人は(主の食卓に相応しいかという点では)もともと相応しくない者であるから、「自分を吟味する」とは「私の義は全部キリストにあるのか」の再確認でしかない。

αναξιως」とはパンをいただく人の根拠をほんの少しでも自分の中に残していることである。
織田昭著
『新約聖書ギリシア語小辞典』34
教文館

キリスト者たちの犠牲


ちなみに、第一コリント書11:29の「からだ」(σωμα)の内容は、第一コリント書11:27 の「からだと血」 である。

聖書には確かに「ふさわしくないままで」と書いているが、それでは誰がどうやって、聖餐に「ふさわしい者」として与れるというのだろう。

ここでは聖餐と愛餐の混同、貧しい人々を考慮しない愛餐の私的乱用者が注意されているに過ぎない。

[コリント人への手紙 第一  11:20,21,22]

しかし、そういうわけで、あなたがたが一緒に集まっても、主の晩餐を食べることにはなりません。
というのも、食事のとき、それぞれが我先にと自分の食事をするので、空腹な者もいれば、酔っている者もいるという始末だからです。
あなたがたには、食べたり飲んだりする家がないのですか。それとも、神の教会を軽んじて、貧しい人たちに恥ずかしい思いをさせたいのですか。私はあなたがたにどう言うべきでしょうか。ほめるべきでしょうか。このことでは、ほめるわけにはいきません。
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キリストに「ふさわしくないままで」来る者たちは、神に決して拒まれることはない。

イエスは、彼らに、彼らの犠牲によってイエスの犠牲にあずかるようにすすめ、教会を彼の犠牲へと導き、招くのである。 

聖アウグスティヌスは言う、「そこにキリスト者たちの犠牲がある。すべてのものは、全体として、キリストにあって同じ一つのからだなのである」と。
そして彼はつけ加える、教会はこの犠牲を聖餐にさいして学ぶのであって、聖餐にさいして、キリストは、彼の捧げものにおいて、教会そのものがささげられることを示されたのである、と。
......人は「ささげる者」(προσφερων) 以外ではありえない。
......イエスだけが、世の罪を負い、運び去る神の小羊であるが、人がキリスト者となり、キリスト者として死ぬのは、キリストの犠牲によってなのである。
人々が命を再び見いだすためにはただ一つの犠牲で十分であった。
けれども、キリスト者たちは、自分たちのからだを生きた、聖なる供え物として神にささげられなければならない。
赤木善光著
『聖餐論』 153-154
日本基督教団三島教会刊行会

キリスト者の交わり


過去、典礼はシナクシス (言葉の祭儀) とユーカリスト(感謝の祭儀)という二部構成だったわけだが、シナクシスが終わった後、ミサは「解散です、行きなさい」を意味する言葉 (Ite, Missa Est)に由来している。

ユスティノス(約100年-約165年) は、最古の聖餐の定式を『第一弁明』で記述している。

さて私共は、信仰を抱きかつ教えに同意した者に上述の仕方で洗礼をさずけてから、この人を「兄弟」と呼ばれる者たちの所に連れて行きます。
ユスティノス著
『第一弁明』651
キリスト教教父著作集 1
教文館

古代教会の慣習では洗礼の後に、教会で共に祈ることを許されたのだろうが、「祈り終えると、私共は互いに平和の接吻を交わします」(第一弁明652)とある。

[マタイの福音書 5:23,24]

ですから、祭壇の上にささげ物を献げようとしているときに、兄弟が自分を恨んでいることを思い出したなら、
ささげ物はそこに、祭壇の前に置き、行って、まずあなたの兄弟と仲直りをしなさい。それから戻って、そのささげ物を献げなさい。
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聖餐の前に平和の接吻が先行し、キリストにおける「和解」 が互いに存在していた。

正直、キリストとの交わり、他の諸聖餐共同体のキリスト者たちとの交わりに、制度的キリスト教会組織が共同陪餐を分裂させているなら、殆ど考慮せずにキリスト者同士で交わっていけば良い。

141-3
主の日毎に集まって、 あなたがたの供え物が清くあるよう、 先ずあなたがたの罪過
を告白した上で、パンをさき、感謝を献げなさい。 その友人と争っているものはす
べて和解するまでは、 あなたがたと一緒に集ってはならない。 それはあなたがた
の供え物が汚されないためである。 主によって言われていることはこれである。
『使徒教父文書』
「十二使徒の教訓」
講談社文芸文庫
[マラキ書 1:11]

  日の昇るところから日の沈むところまで、
  わたしの名は国々の間で偉大であり、
  すべての場所で、わたしの名のために
  きよいささげ物が献げられ、香がたかれる。
  まことに、国々の間で偉大なのは、
  わたしの名。
──万軍の主は言われる──
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神との和解を基準にしながら、互いの和解、罪の赦し、償いなどが問題になるかもしれないが、──実際、キリストにおける交わりは互いに愛し合い、互いに赦し合うに至る。

[マタイの福音書 18:20,21]

二人か三人がわたしの名において集まっているところには、わたしもその中にいるのです。」
 そのとき、ペテロがみもとに来て言った。「主よ。兄弟が私に対して罪を犯した場合、何回赦すべきでしょうか。七回まででしょうか。」
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キリストの受肉と聖餐の結合


聖餐の実践的な提言としては、
① 主の祈りを聖餐式の導入とする。
② 空腹に対応する愛餐の前に聖餐式を執行する。

シナシクシスでは主の言葉を食し、ユーカリストでは空腹以前のキリストの十字架の死を思い出す(αναμνησις、アナムニシス)ことで、聖霊の実を結ぶことになる。

[ガラテヤ人への手紙 5:22,23]

しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、
柔和、自制です。このようなものに反対する律法はありません。
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会 許諾番号4-2-3
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同じように重要なのは、ユスティノスが「言葉によって受肉した救い主イエス・キリストが肉と血とを受けたのは、私共の救いのためであったという、このことに対応して、キリストから伝え受けた祈りの言葉で感謝した食物も、私共の受けた教えによれば、あの受肉したイエスの肉と血であり、私共の血肉はその同化によって養われるのです」(『第一弁明』66・2)と書き、キリストの受肉と聖餐を結び合わせている点である。

神の愛の故に、──神との交わりを理由として、キリストの受肉と聖餐を引き裂くことはできないし、キリスト者の私たちは既に互いに交わりを保っている。


キリスト者の聖餐と交わりを妨げるもの


他方、諸教派共同陪餐は困難を極めている。
① ローマ・カトリック教会とプロテスタント諸教会。
② ローマ・カトリック教会と正教会。
③正教会と非カルケドン派の諸教会。

さらに交わりの不在は、聖餐を司式する権利に関する紛争によることがある。

この権利は、ある人々が、監督されうるしかたで、行使するために与えられたキリストの委任につながっているか(またはつながってないか)ということにかかわっている。

したがって、この紛争はまず、この委任の必然に関するもので、それが肯定される場合には、それを監督するしかたにかかわってくる。その正当化の基準は、たとえば、基本的職制の社会学的形体としての教区主教職に使徒継承を結びつけるか、または結びつけないか──ということである。
F.アルメン著
『聖餐論』108
日本キリスト教団出版局

混合物──水とぶどう酒


サマリア出身のユスティノスはパン、ぶどう酒に加えて水を聖餐で配布した。

しかし、シリア、或いはパレスチナで成立した『十二使徒の教訓』ではパンとぶどう酒だけになっている。地域的な差に過ぎないのだろうか。

91
最初に杯について。「わたしたちの父よ。あなたがあなたの僕イエスを通してわたしたちに明らかにされた、あなたの聖なるぶどうの木について、あなたに感謝します。あなたに栄光が永遠にありますように」。

9・3
パンについて。「わたしたちの父よ。あなたがあなたの僕イエスを通してわたしたちに明らかにされた生命と知識とについて、あなたに感謝します。あなたに栄光が永遠にありますように。
『使徒教父文書』
「十二使徒の教訓」
講談社文芸文庫

キリストの十字架では、パンである体が裂かれ、血をぶどう酒として、更に水が流れたとあるからだろうか。

[ヨハネの手紙 第一 5:6,7,8]

 この方は、水と血によって来られた方、イエス・キリストです。水によるだけではなく、水と血によって来られました。御霊はこのことを証しする方です。御霊は真理だからです。
三つのものが証しをします。
御霊と水と血です。この三つは一致しています。
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オーストリアの神学者 (イエズス会司祭)のJ.ユングマン(1889年-1975年)は『古代キリスト教会典礼史』(平凡社)の中で、以下のように述べている。

──ヒッポリュトスの『使徒伝承』では新受洗者はパンを受けた後、「乳と蜜の入った杯が渡され、次いで水の入った杯が渡される」 とし、それから感謝の杯が渡されたという。「乳と蜜は、新しく生まれた子どもの食物だった。水は、明言されている通り、洗礼において行われた内的きよめのしるしだった」。
J.ユングマン
『古代キリスト教典礼史』51
平凡社

ここで目につくのは、パンとぶどう酒、それも「混合物」 (χραμα) と呼ばれるぶどう酒(水を含むぶどう酒のこと)が運ばれるだけではない。 

これ以外に、特に水も挙げられている点である。 

水を混ぜたぶどう酒に一つ、水だけのために一つというように、二つの別々な杯が意味されていることは明らかである。聖体拝領の際、新受洗者には、明らかに感謝の杯以外に、そしておそらくその前に、内的な清めのしるしとして、水を入れた杯が与えられることになっていた。
J.ユングマン
『古代キリスト教典礼史』59
平凡社

いずれにせよ、聖餐は礼拝の構造を明らかにするが、特に説教における神の恩寵が聖餐式の現場に実現されていかなければならない。

[コリント人への手紙 第一  2:2,3,4,5]

なぜなら私は、あなたがたの間で、イエス・キリスト、しかも十字架につけられたキリストのほかには、何も知るまいと決心していたからです。
あなたがたのところに行ったときの私は、弱く、恐れおののいていました。
そして、私のことばと私の宣教は、説得力のある知恵のことばによるものではなく、御霊と御力の現れによるものでした。
それは、あなたがたの信仰が、人間の知恵によらず、神の力によるものとなるためだったのです。
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