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北海道では珍しい江戸時代初期創建の千歳神社へお参りしてふしぎ発見した話
トップ写真 千歳神社の立派な拝殿
江戸時代創建 千歳神社の歴史
何回か前のnoteにて、
北海道にあるほとんどの神社。
明治以降の創建。
そんなことを書きました。
今回の北海道訪問にて、
複数の神社へ参拝させていただきました。
その中では一番古い神社。
千歳神社。
神社の御由緒によると、
創建は万治元年(1658年)。
江戸幕府の統治となって約半世紀後。
松前藩の資料によると、
万治元年、
この地に弁天堂が建立された。
と、記されております。
![](https://assets.st-note.com/img/1713765177492-28LrFFDQy9.jpg?width=1200)
元々は弁財天をお祀りする祠。
それが、千歳神社のはじまり。
そののちの享和3年(1803年)。
幕史の勇払詰所役人 高橋治太夫が、
シコツ場所の守護神として、
京都伏見より、
正一位しこつ稲荷大明神を祭祀。
シコツ場所というのは、
この辺りの元の地名です。
弁財天でスタート。
それから約150年後、
伏見稲荷からお稲荷さんである
ウカノミタマを祀った。
![](https://assets.st-note.com/img/1713765043387-utW4i9gP0f.jpg?width=1200)
その後、
シコツ場所の鮭漁が盛んになるに従って、
千歳川の漁場の守護神として、
さらに弁財天が勧請されました。
神仏習合の時代ですね。
![](https://assets.st-note.com/img/1713765232557-uXhJLRGhTo.jpg?width=1200)
明治維新後の明治8年。
主祭神を豊宇気比売神へ変更。
大正6年には、
しこつ稲荷神社から、
千歳神社と改称。
現在に至っている。
1868年に出されて神仏分離令。
おそらく、その影響からなのでしょう。
弁財天から始まった信仰は、
主祀神がウカノミタマ神から、
豊宇気比売神へ。
ここで言われる豊宇気とようけ比売神。
伊勢外宮の神様である豊受大神。
また、豊受大神は、
お稲荷さんのウカノミタマ神や、
オオゲツヒメ神と同神説。
![](https://assets.st-note.com/img/1713765396158-At6FrH3cGo.jpg?width=1200)
![](https://assets.st-note.com/img/1713765432755-1M5KuFMhqy.jpg?width=1200)
そう言われてますので、
ウカノミタマから
豊宇気比売神への祀神変更。
さほど、違和感はないでしょう。
千歳の地名の由来
多くの方が北海道を訪れる際、
降り立つ空港は新千歳空港。
![](https://assets.st-note.com/img/1713765600528-XssmuMRonk.jpg?width=1200)
千歳と書いてちとせと読む。
日本人の常識。
では、この千歳という地名の由来。
ご存知でしょうか。
冒頭の方で書いた通り、
元々この辺りはシコツ地という地名。
支笏湖が今もしこつことして残ってます。
『シコツ』が『千歳』
と改称したのは文化2年(1805年)。
時の箱館奉行、羽太正羪に、
部下の山田鯉兵衛が、
川の名の響きが悪いのでと、
改名を願い出ます。
羽太は、
この地に鶴が多く生息していることから、
「鶴は千年」の故事にちなんで
『千歳川』と命名し、
その経緯と和歌を、
弁財天の御厨子の裏に記し、
神社へお祀りした。
これが、シコツ地から千歳。
地名変更が行われた経緯。
私は初めて知りました。
フレト匕のチャシ跡
千歳神社は千歳川のほとり、
街を見下ろす高台に、
緑豊かな杜に囲まれて鎮座しております。
境内を散策していると、
フレトヒのチャシ跡と書かれた石碑を発見。
![](https://assets.st-note.com/img/1713765648060-udmX9aw1qr.jpg?width=1200)
アイヌ語は分からないので検索。
『かつて、このフレトヒチャシのあった場所。
アイヌ語で「ロウサン」と呼ばれていた。
「ここより開けていく所」との意味。
シコツ16場所の一つにも数えられる
豊かな漁場でもあった。
そのことから、
フレトヒチャシは漁場の見張り場所。
と考えられる。』
要約するとそんなことが書いてました。
ここより開けていくところ。
そんな意味から、
この場所は、
アイヌの人たちにとって、
大切な場所だったのではないか。
そう推測できます。
![](https://assets.st-note.com/img/1713765713295-Xegghh3I7l.jpg?width=1200)
![](https://assets.st-note.com/img/1713765771343-6vIv9fXQYR.jpg?width=1200)
遠く離れた千歳神社で阿波人の痕跡
現在の千歳神社。
立派な神社です。
北海道独特の植物の杜に囲まれ、
本州の神社では見られない鎮守の杜。
![](https://assets.st-note.com/img/1713765828546-zX57AdPdYz.jpg?width=1200)
![](https://assets.st-note.com/img/1713765850244-kS0pfCAdyA.jpg?width=1200)
かつては稲荷社であった名残か、
狛犬ならぬ狛狐さんも見られます。
![](https://assets.st-note.com/img/1713765935252-pJcpPiMj3D.jpg?width=1200)
![](https://assets.st-note.com/img/1713765975126-T9ll59F2CM.jpg?width=1200)
そして何より、
私が千歳神社で発見した不思議。
それは、神社へ献金した人たちの名。
掘られている石碑。
どこの神社でも目にするあれです。
そこに大きく刻まれた苗字。
どう考えても阿波人であろう。
という苗字を発見。
後藤田さんと麻植さん。
後藤田家は祭祀を司る忌部氏の末裔の苗字。
現、徳島県知事も後藤田さんです。
![](https://assets.st-note.com/img/1713766006487-Xwu84sMl3f.jpg?width=1200)
麻植さんは、かつて徳島県にあった地名。
麻植郡辺りの姓。
麻は皇室神事と関わり強く、
忌部氏が全国に広めて行った。
後藤田さんと麻植さん。
どのような経緯で千歳神社へ行ったのか。
ここが気になった発見でした。
献金の碑に掘られた名前。
神社参拝で観察する人は少ないでしょうね。
意外な発見があって、楽しいのです。(笑)
アイヌ民族と和人の交流気配が残る聖地
江戸時代。
幕府がシコツ地周辺の東蝦夷を直轄。
それまでこの地は、
アイヌ人と和人の交易の場。
境内横を流れる千歳川。
太平洋側の石狩湾へ注ぎ。
日本海へも抜けられる交通の要諦。
だったはず。
アイヌの人の大切な場所であった痕跡。
残っているのは、
フレトヒのチャシ跡の石碑だけ。
その石碑も多くの人が気づかず、
立派な社殿の方へ目が向かうはず。
現在、立派な千歳神社が建つ場所。
歴史の中、
どのように変遷して今があるのか。
そんなことを考えながら参拝されると、
充実した時間となるはずです。
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![](https://assets.st-note.com/img/1713766103319-paS6DOPJ0p.jpg?width=1200)
新千歳空港からさほど遠くはありません。
帰路の際、
空港のラーメン道場にて美味しいラーメン。
これも魅力ありますが、
是非、空港へ行かれる前、
千歳神社へ立ち寄って、
参拝されてみてはいかがでしょうか。
![](https://assets.st-note.com/img/1713766130672-DW2ZgPLDyu.jpg?width=1200)
![](https://assets.st-note.com/img/1713766143485-kYd5ZlLJQw.jpg?width=1200)
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