蜘蛛と驢馬
【1】
私にはフレデリックがいる。
ノッティンガムでキリンの惨殺死体を見た日から、フレデリックは窓にいた。
初めてこの部屋に入った時、私は宇宙船に乗り込んだような息苦しさで思わず深呼吸した。
スーツケースを解いて、服と味噌汁と羊羹を出して、タオルをあの棚に、ドライヤーをこの引き出しに、ドーハの空港で買ったアラビアンなティーカップは窓辺に、既読無視したままのグループラインはカーテンレールに、Meal DealでついてきたいらないSnackのNik Naksはベッドの下に、据え置いた。
そうすると部屋は発射したが、私はとっとと外に出てシェフィールドの街を散策していた。
イギリスには、マグパイというカラスに似た鳥が何匹もいる。
マグパイは頭の良い鳥で、鏡に映った姿を自分だと認識できるらしい。
道端に落ちた「Fish&ChipsのChipsの部分」をつつくマグパイを見て、今こいつに鏡を見せたら自己の悩みに陥るだろうか、と思う。
ああ、そこに自分がいる。いるいる、しっかりここにいる。という確信が、どんぶらこどんぶらこと命を揺らすことに。
私の部屋は人工衛星となり、順調に目的の天体を周回する軌道に乗っていた。その間にも、フレデリックは着々と巣を作り、キッチンでチーズケーキを作って帰ってきた日には、本館の工事を終えて別荘に取り掛かっていた。
【2】
シェフィールドには、museumがある。
スーパーマーケットのLidlに近い方が、ドンキーの住んでいるmuseumだ。
ドンキーはひとりぼっちだった。ウォンキーでロンリーで、森や、丘や、手のひらや、幾何学模様の城の中に佇んでいた。周りに仲間がいても、誰とも目が合わない限り、ドンキーは孤独だった。
ドンキーの奥にはヴァチカンの風景があり、ドンキーの手前には金や銀の雑貨が展示されている。
銀色の大きな鋏を見つけた時、これは人間の首を切れそうだと思った。
ふと、レディ・ジェーン・グレイが、ほとんど鈍器と言えそうな斧で処刑されたことを思い出す。
ドンキーの絵がひとしきり並んだ先に、ひとつだけ、鏡の作品がある。そういえば銀色の鋏も、私の顔が写るくらいぴかぴかだった。
シェイクスピアの真夏の夜の夢では、美しい妖精の女王が驢馬頭の男を愛したけれど、それは喜劇のおはなしで、妖精パックは軽やかにトランポリンを跳ねて、エースキングのスートでオールインしても負けることがあるんだし、そうだ、忘れちゃいけない、私にはこの傷がある、この恋がある、という切り札を。
マグパイが鏡を見て自分だとわかる傍らで、私は自分のことを見ても、それが誰だかわからない。
【3】
フレデリックの城が壊されたのは、深い眠りから覚めた夕方のことだった。
泰平の眠りを誘うバファリンはたった一錠で昼から寝かせてくれたが、フレデリックの死に目に遭うことは許してくれなかった。
窓の清掃は暴力的だった。ここではなんでも暴力的だ。車のスピードも、ごみの分別も、サンドウィッチのカロリーも。だからフレデリックの城はめちゃくちゃになったし、夢の別荘も半壊されて、絡まってひとつになった糸が惨めにも風に揺らいでいた。
フレデリックの姿は見当たらなかった。
私は墓を立てなくてはと思った。
フレデリックの墓を。この世で一番小さい墓を。
私がこの土地で墓を見たのは、バンフォードとベイクウェルだけだ。どちらも静かな教会の横に寂しく墓地が広がっていた。そこに死体が埋まっていることよりも、そこに命日があることの方が不思議だった。
ベイクウェルで、乳牛に混じって空を眺めていた時、あの子が「ねえ、私たちって今、放牧されているんじゃない」と呟いた。私は、今にもこの果てない草原から矢が飛んできて、私の頸動脈をひいふつと射切るのではないかと、途端に恐ろしくなった。
そういえば、ここを夢で見たことがあった。悲劇が起こるのはいつも草原なんだ。だからドンキーは孤独なんだ。
【4】
フレデリックの息子を見つけたのは、その日の夜だった。
フレデリックより二回り小さい彼のことを、私はフレッドソンと名付けた。
フレッドソンは父の遺志を継いで、別荘をもう一度紡ごうとしていた。
しかし小さいフレッドソンは気まぐれなシェフィールドの天気に蹂躙されて、窓を伝うのもままならない様子だった。
私はフレッドソンのために、窓の内側から、ショパンの幻想ポロネーズを流した。
鏡を見ても自分だと認識できない生き物は、逆に鏡像でもなんでもない他者を、ひょっとしたら自分かもしれないなどと、思うのだろうか。
窓の奥でちょこまかと動くフレッドソンを見つめながら、私はペロペロキャンデーを舐めていた。
要するに、フレッドソンは私のことを、フレッドソン自身だと思ったりするのだろうか……
それは事実だな、とショパンは頷く。だって私とフレッドソンは同じだもの。
リーズのカークストール修道院で、壊れた瓦礫の穴から向こう側の草原を覗いたとき、私はずっと、もう一人のわたしを追いかけていたんだから。
もしも、自分の母親が。自分の原風景が。かつてその子宮を永遠のねぐらにしたいと願ったあなたが。自己の悩みに汚されて。たとえば嫉妬とか。窓の清掃とか。そういうものに晒されて。たまらない。娘としてたまらない屈辱。私のマリアが。私のピエタ像が。私の聖家族が。たまらなく人間臭くなっていく感じ。だまれどの口が。違う。違う。娘として由々しき自体だ。違う。帰るんだちゃんと。お家に。あなたは娘なんだから。あなたは賢くて優しい娘なんだから。
愛だ。あるある。しっかりここにある。
幻想ポロネーズは、気づけば最後の第四主題に差し掛かっていた。
フレデリック。早く墓を。もうすぐ、着陸してしまう。
私の部屋はもうすぐ、二度と住むことのない白になる。
【5】
ドンキーにもう一度会いに行こうと思った時、
どうしても名前を思い出したい作品があって検索してみると、
ドンキーはとても人気者であることがわかった。
ドンキーは孤独ではなく、
誰も彼も、本当は孤独ではなかった。
私はドンキーに会いに行かなかった。
そうして私の部屋は着陸し、
スーツケースはずっと軽くなり、
フレデリックの墓は完成しなくて、
私はフレッドソンにさようならとだけ告げて、
ここを去った。