Donne moi ton enfance
夏になると、暑さに呆然とするたびに、壊れたテレビで起きるゴースト現象のような、自分の感覚が二重になるような気分の悪さに陥る。これが年々増すので、夏のことを年々嫌いになっていった。
哲学は Qu'est ce que
そこにからまった紐があれば、解かなければならない
詩は Il y a
そこにからまった紐があれば、それがあることを描くだけでいい
先生がそう言った時、私の片方の感覚は自分から何歩も離れて、教室の片隅で空を見ていた。
お腹が空いた時のような、心の安寧に波風こそ立てないけれどしっとりと不愉快にさせてくる不在の感触が、途切れない。
足りないものはなんだろう。きみの幼年?
いや、わからなくてもいい。この感触は、fausse questionかもしれない。
毒でもいいから飲み干させて欲しい、そういう切実さがこの詩にはあります。
そう言った生徒は、いつも足首にミサンガをしていて、それを知っている人はたくさんいるだろうけど、「気づいて」いる人は私だけかもしれない。たぶんそのミサンガみたいなものだ、幼年というのは。
世界の同時性を感じる瞬間に行き当たる「きみ」、僕これが愛だと思うんですよね。
先生がそう言った時、私の片方の感覚は私の耳元に立って、くすぐったい息を吹きかけていた。
なるほど愛か。なるほど愛ね。
世界のどこかで、今陽が沈んだ国があったり、今落とした茶碗があったりするのは、きみの随所に、腕や口や内臓のいじらしい動きが同時に存在しているのと、そう変わりはない。
そしてきみの幼年もその一つなんじゃないのか?と片方の感覚は口ずさむ。
駅までの道、私は片方の感覚をしっかりと右手で掴み、重くのしかかるあつい空気に耐えながら、歩いていた。
パンタグリュエルが投げた凍った言葉は、色とりどりの真珠でおおわれたキャンデーのようだった。
先生は、このパレードのように華々しい描写が好きだと言い、凍った言葉を何個も自分の心にためて、ある日ふとそれが溶けた時、人生を感じると言っていた。
凍ったままの言葉や記憶が、胸の奥で山積みにされている。それが溶ける時を待っている。不可解な言葉と、不可解な仕草と、それに不釣り合いなくらい真っ直ぐなまなざし。
きみの幼年は、私の心で大きな氷となっていつか溶ける日を待っている。外は夏で、誰も彼も眠ってしまうほどだけれど、きっと、まだまだ溶けない。
私はきみの幼年を溶かして、飲み干さないといけない。
蝉が必死に泣き叫ぶ、あの日、私がカッターで切り込んだメスの死体、ぎっしりと詰まった卵の鈍い光、カッターを捨てて逃げた、私の幼年。
麻酔から覚めた昼下がり、私の喉で鳴いていた蝉は、今かたちを持って夏を謳歌しているのだろうか。それとももう、道端で腹を見せているのか。あのとき私が目を覚ました病室と、今、片方の感覚と手を繋いで歩く駅までの道と、どちらがより夏なんだろう。
私の幼年。夏の、原風景。