人生とは-夫婦ご卒業-
生まれて初めてのひとり生活の始まり
夫が息を引き取ると、医師に脈が止まった時間を電話で報告し、漸く医師が訪れ、死亡診断書を書いてくれた。それを役所へ提出し、静かに着々と別れの準備を進めて行く。すべてを一人で決めて行くわけだから泣いている暇なんかない。姉には区役所へ同行してもらったり、銀行で当面必要なお金を引き出したり等、最低必要限のサポートをしてもらったが、みなそれぞれの家へ帰って行った。
葬儀屋さんに連絡すると、翌日に来てくれることになった。
つまり、翌日にお棺に納めることになる。
それまでの間は、私と二人だけなので私は夫の隣で添い寝をすることに。なんといってもベッドはひとつしかないし、車椅子の私が休める場所はそこしかない。それも横は夫が寝ているので足元からはい上がるしかなく、今思い返しても四肢機能障害の私が一体どうやって車椅子からベッド、ベツドから車椅子への移乗ができたのか?我ながら「あっぱれ」であった。
夫は、昼間の姿よりも痩せて小さくなっていたが、穏やかで安らかな表情で眠っていて、そのことが何よりも私を癒してくれた。
翌日は葬儀屋さんがすべて世話をしてくださり、無事、棺に納めてくれた。そして一度も袖を通していない大島紬をかけてもらう。告別式は、火葬場が混んでいるため数日後となったが、近くの花屋さんで桜を見つけたと言って姪っ子が買って来てくれたり、みな気遣ってくれた。
そして、出棺当日も義兄が「弟は満開の桜を見るのを楽しみにしていたんですよ。最後の桜を見せてやって欲しい」と葬儀社の運転手さんへ頼んでくれて、特別に少しコースを伸ばして満開の桜並木を走ってくれた。実に有り難いことであった。感謝感謝である。
やがて、荼毘に付され、みんなで拾ったお骨は骨壺に納められ、膝に乗せ帰宅するが、その温かさ、重みは、夫が形を変えて生きていることを感じさせてくれた。
そして、義兄が何かと気遣ってくれ、立派なお仏壇ほか一式を浅草橋方面まで出かけて行って調えてくれた。勿論、代金はこちら持ちであったが、毎日、お線香もお灯明その他も供え、供養した。遺影にも普通に話しかけていたので部屋の雰囲気は生前と殆んど変わらなかったが、夫はどう思っているだろうかと遺影を見上げることが多々あった。
というのも、生前に二人で話し合って決めたことを守っていないからである。しかし、まだまだ当時のものの観方・考え方からすると、私たちのそれとはかけ離れ過ぎていて話すことができなかった。
そして、いよいよ納骨。
これも面白いものだが、以前から義兄が「お前たちは子供がいないんだからおふくろと一緒の墓へ入ればよい。」と言ってくれていた。それで夫も自分たちの墓を新たに用意することは考えず、先祖代々の墓・菩提寺にお世話になることに決めていた。そのことを義兄に言うと引き受けてはくれたが、「○子さんが先に逝けばよかったのに」とひと言ぽつりと。
それについては何も言えなかったが、とりあえず遺骨の納まり場所が決まったことは何よりであった。その後何回かの法事は私が施主として行ったが、遠方であることや会食や引き出物の準備等、とてもできるものではなく、自然消滅した。
そして、今でも時々思い出すことは、亡くなったあと。
ちょうど13か月後のこと。
「そろそろ思い出いっぱいの公園にも行かないとな」と思い始めてようやく決心して出かけることに。
家から公園までは広い一本道。
電動車椅子だからレバーを押していれば自動的に前進する。買い物をする時のように途中でショッピングセンターへ入ってしまえば何ともなかったが、この日ばかりはなんとしても行かなければとの強い決意で前進する。
私は一体どんな表情で前進していたのだろうか・・・前から来る人来る人が「何があったのか?」という心配そうな顔をしてすれ違っていく。私は胸が締め付けられるような苦しさに歯を食いしばり、じっと前を見て進んでいく。自分でも意外な反応に驚きながらも、一年以上も胸に閉じ込めていた哀しみの大きさを感じながら、とにかく公園で夫に語りかけながら、お互いの現実を確認し合った。
桜満開の中央通り、色鮮やかな紫陽花の通り、季節を知らせる香りの金木犀、銀杏や栗の実等々・・・
時にはグランド前の売店でアイスを買い、ベンチでおしゃべりを楽しんだりと思い出は尽きない・・・
「ありがとう。あなた・・・」
さあ、これからは学び残しがないよう「人生のすごろくゲーム」をしっかり学び遊んでがんばです♪ (⌒∇⌒)
---つづくーーー
私を生かし活かしてくださいましてありがとうございます。
感謝、感謝申し上げます。(ー人ー)