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『思い出は美しすぎて』 八神純子
番組は歌から始まる。ワンコーラスが終わるとBGレベルまで音は落ち、大石吾郎のあのお決まりの
台詞がラジオから流れてくる。
“黙っていては 友達になれない 叫ばなければ 消え去ってしまう
私たちが生まれてきた時から育ててきた 何かを伝えあうために
ちぎれかけた世界の 心と心をつなぎあうために 私たちの歌が 今ここにある・・・”
“お元気ですか?大石吾郎です。”
というソフトな語りから始まる“コッキーポップ”というラジオ音楽番組を覚えているだろうか。
番組テーマソングは、その時話題になっているポプコン出身アーティストの歌が使用されていた。
毎回同じ台詞を大石吾郎が語りかけるわけだが、BGMが世良公則&ツイストの「あんたのバラード」の時と中島みゆきの「時代」の時ではぜんぜん違うし、ましてやアラジンの「完全無欠のロックンローラ
ー」が流れたとき、僕はラジオのチューニングを間違えたかと思い、チューニング・メーターを確認した
ほどだ。深夜0時30分から30分間の番組だった。
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ある日の0時30分、心地よい泣きのギターフレーズが流れた。溶けるようなイントロのあとに、これまた溶けるようなヴォーカルが絡む。八神純子のデビュー曲「思い出は美しすぎて」である。それまでのコッキーポップにはない楽曲で、ニューミュージック全盛の頃、スローなボサノバのリズムが珍しかった。
八神純子は1974年の第8回ポピュラーソングコンテストにおいて「雨の日のひとりごと」で優秀曲賞を受賞。海外の音楽祭でもグランプリを取り、なりものいりで1978年『思い出は美しすぎて』でアルバムデビューした。
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どこまでも伸びる高音の美しさと、アイドル歌手とは一線ひいた実力派シンガーというキャラクターで、次々とヒットを飛ばしていった。特にTBSの《ザ・ベストテン》が彼女のプロモーションを後押した。テレビ出演を拒否するニューミュージック歌手が多い中、彼女はチャートインすればどこででも歌った。そしてそれがヒットにつながっていった。「水色の雨」「思い出スクリーン」「ポーラ・スター(北極星)」「パープルタウン」「Mrブルー(私の地球)」「I’m A Woman」・・・。
1978年から1981年までの4年間、彼女の歌はヒットチャートを駆け巡っていった。
1984年からはレコーディングをアメリカで行い、1986年にはプロデューサーのジョン・スタンレーと結婚。活動の場をアメリカに移す。時代の流れもあり、音楽性もポップでビートの効いた作品が目立つようになった。
僕は好みからいうとアメリカにわたる前の八神純子が好きだ。現在の彼女を否定する気は無いが、彼女の持つのびやかなヴォーカルは、シンプルなバンド編成と余計なフェイク音が交じり合わない構成の作品で活きると思うから、必然的に昔の作品を推してしまう。特にデビューアルバムの『思い出は美しすぎて』は、シングルデビューした1974年からの集大成で、落ち着いた楽曲が並び、歌の上手さを引き出している。
また、八神純子はビジュアル面でも印象的だった。「水色の雨」でのサンバホイッスルと、ぶっ壊れるんじゃないかと思われるくらい思いっきりピアノのペダルサスティーンを踏む姿が忘れられない。
思い出は美しい。
2006年1月14日
花形