『ブラザー・イン・アームス』 ダイアー・ストレイツ
初めてダイアー・ストレイツを聴いたとき、なんともいえない感覚にとらわれた。このサウンドとこのヴォーカルは今の時代に合っているのか?何なんだこの音楽は・・・?
時は1977年。ロンドンでは安全ピンとカミソリをアクセサリーにしたパンクスが大流行していたし、片やアメリカはディスコサウンドでみんなフィーバーするか、往年のアーティストがAOR路線に移行していた時期。そんな中でダイアー・ストレイツは異端に見えた。
マーク・ノップラーはロッドやミックのようなロックスターのキャラクターでもなければ、ジョン・ライドンやクラッシュのような過激さも無い。AORかと思えば、そうでもない。ストラトのクリアーなサウンドはシャドウズからの影響が汲み取れるが、ヴォーカルはボブ・ディランのようにくぐもった声だ。
『スィング・オブ・サルタン』(1978)でデビューしたが、邦題の「悲しきサルタン」という響きもよくわからなかった。時代錯誤のようなこの音楽は、米国、英国ともに最初は全然評価されず、発売前に米ワーナーブラザーズはセカンドアルバムの制作にすぐ取り掛かる指示を出すほどだったらしい。
しかし、この「サルタン」はオランダのあるDJが好んでオンエアーを始め、ヨーロッパそしてオーストラリアといった国からヒットしていった。そう聴くと、ちょっとヨーロッパぽい暗さが出ている。
バンド名“ダイアー・ストレイツ”は、訳すと“恐怖の海峡”となるが、“予想もできない困難”もしくは“あとがない恐怖”と訳すべきなのだろう。何故この名が選ばれたのかというと、彼らがなけなしの資金をかき集めてデモ・テープを作った時、すでにメンバーは20代の後半にさしかかっており、ミュージシャンとしてデビューするにはもう後がない状況にあったからのようだ。・・・“rockin‘ onより”
つまり、時代を読んでデビューしたわけでもなく、彼らの頑固な音楽性を貫いた結果のデビューだった。この頑固さが、後の成功を生むことになるのだろう。
では、僕が何故こんなバンドに目が止まったかというと・・・当時の1流ミュージシャンが口をそろえてマーク・ノップラーが凄い、と言っていたからだ。
マークは、ミュージシャンズ・ミュージシャンと言われていた。確かにその後のマークの仕事を見ていると、映画音楽の製作や、ビッグネームのプロデュースを行なっている。
マークの元に客演の依頼が増え始めた頃の一番のニュースは、やはりボブ・ディランとの競演だろう。アルバム『スロートレイン・カミング』(1979)でのゲスト参加の後、ディランはマークのことを非常に気に入り、1983年のアルバム『インフィデル』ではプロデューサーを任せるほどだった。この「ディランに認められた男」という評価は、さらに数多くの仕事をもたらすことになる。ディランより気難しいことで有名なランディ・ニューマンのプロデュースを行なった時はみんなたまげたものだった。もともと彼のルーツミュージックがロカビリーやフォークミュージックだから往年のビッグスターも気軽に任せられたのかもしれない。
ダイアー・ストレイツの代表アルバムと言ったら何と言っても『ブラザー・イン・アームス』(1985)だろう。当時台頭してきたMTVを皮肉った「マネー・フォー・ナッシング」を収録。2500万枚を記録する大ヒットとなった。ゲストにスティング、ブレッカー・ブラザースを迎え、音楽の幅も広がった。ダイアー・ストレイツは、マーク・ノップラーのワンマンバンドだが、このアルバムを境に多様性を打ち出してきた。
しかし、最近ではオリジナルアルバムが8年も出ていない。映画音楽やトリビュート盤のような企画ばかりに顔を出している。
クラプトンとエルトン・ジョンと一緒に来日した時、東京ドームに響き渡る「マネー・フォー・ナッシング」と「ソリッド・ロック」を聞きながら、複雑な気持ちになった。なぜならそこに「サルタン」の面影が全く無く、流行の音に変わっていたからだ。「サルタン」の頃の独自性を求めたい!、とはファンの勝手な言い草だね。最初はわからなかったくせに・・・。
2005年10月11日
花形