1980年という年
1980年という年は、私の中でロックの終焉を迎えた年だった。
それは70年代と決別したという表面的なものだけでなく、事実としてあまりにも多くの不幸なニュースで彩られた年だったからだ。
1月。いきなりポール・マッカートニーが成田で逮捕。日本公演はすべてキャンセル。ポール・マッカートニー&ウィングスは事実上活動停止となり翌年には自然消滅していく。
このコンサート・・・私は何度も何度も映画館に足を運び、映画『ロックショー』を瞼に焼き付けていた・・・私は行く予定だった。チケットの手配も親戚のお姉さんに頼み準備を進めていた・・・のに、だ。
その後の噂で、実はポールはもともと日本公演なんてやる気は無く、大麻でも持ち込まずにはやってられねぇ的なものだったんだ、とか、実はあえて捕まるため=日本公演をしたくない=リハなんてほとんどやってないもんね・・・なんて軽い気持ちだった、とか。噂は飛び交った。
9日間の拘留後、釈放の際に「日本で大麻所持はこんなに厳しいと思わなかった」とコメント=なんで?大麻くらいいいじゃん、という気持ち。でも禁固刑まで話が行ったときはマジでビビッたけどね、とか。
相変わらずC調なポールではあるが、コンサートが中止になったことは事実で、そのために失望したファンはたくさんいる。ああ、ポールだからしょうがねぇな、なんて雰囲気はあの当時、絶対無かった。どちらかというと「信じられない」という気持ちとやっぱり欧米のミュージシャンはクスリ漬けなんだと思った。日本でも1978年あたりに芸能界大麻汚染なんてものがあって、みんな芋づる式にパクられた。日本での騒ぎのほとぼりも冷めたかなぁなんて思っていた矢先のことであったから、暗澹たる思いとなった。これじゃ、一生ジョンもポールもストーンズも見ることができないと思ったものだった(でも前年にボブ・マーリーがマリファナだらけのコンサートを中野サンプラでやってたからなぁ・・・案外大丈夫かな、なんて思うこともあった)。
で、ポールさん・・・真相はどうなんでしょ。1億5千万円の違約金を払ってまでも日本公演をやりたくないと言ってたのは本当なんでしょうか。さっさと金を払うよりもポール独特の洒落でありえもしない量の大麻を隠すことも無く持ち込んだゲームをしたのでしょうか・・・。
私は当時のミュージックライフを見るたびにウィングス観たかったなぁって思うのだよなぁ。
1980年。まず、ここからケチがついた。
夏になるといつもは全世界が浮かれるオリンピックも米ソの冷戦においてモスクワオリンピックは共産国大会になってしまう。
ボイコットを決めた日本五輪協会の面々。スポーツと政治が絡んで、泣くのは選手だけ。ロックの終焉とは関係ないかもしれないが、世の中が歪んでいた一つの事象である。
9月。ピンクレディーがようやく解散したかと思いきや、いきなりジョン・ボーナム死亡の報せ。その10日ほど前の15日には絶対生で観たかった孤高のジャズピアニスト、ビル・エヴァンスの死で落ち込んでいたところにこの報せをラジオで聞いた。
FM東京の番組「サントリー・サウンド・マーケット」の中で、速報的に伝えられた。「レッド・ツェッペリンのドラマー、ジョン・ボーナムがオレンジウォッカの飲みすぎで死亡した」という簡単なコメントだったが、それを読んだDJのシリア・ポールがいつもの色っぽい声ではなく、無機質で抜け殻になったような声だったのを覚えている。
その後、ジミー・ペイジはバンド解散を決めるわけだが(12月)、ツェッペリンという大きなバンドが名物ドラマーを失ってどうなるかと言うのは私の高校時代の毎日の話題だった。
ザ・フーのように代わりのドラマーを入れるのか・・・いやいや、キース・ムーンが叩いていないザ・フーなど何の価値もない!・・・いやいやバンドとして続けていくことがすごいことだ。ストーンズを見てみろ!・・・なんて不毛な会話。
しかし、ツェッペリンの動力が消えたことは確かであり、みんなショックだったのだ。
12月。それはあまりにも唐突過ぎた。7時のNHKニュース、トップ項目。
「元ビートルズのジョン・レノンさんが・・・」
私は両親と食事をとりながらその映像をみていた。
母親が「ええーっ」という悲鳴に近い声を出したこと。私はその後、部屋に篭りレノンのレコードをすべて聞き直したこと・・・。
その当時、ロックとかフォークとかレコード会社が決める所謂ジャンルはクロスオーバーしていて良く分からなかったんだが、ビートルズはビートルズだった。
ロックンロールでもハードロックでもフォークでもない。ビートルズだった。その中の1人が殺された。
レコードを1人聴きながら、今年は何て年だ!と思った。
大きなバンドがいきなり無くなった。しかもツェッペリンはヨーロッパツアーを終え、アメリカツアーに出る直前の事故。前回のワールドツアーはロバート・プラントの息子が幼くて急死するハプニングからワールドツアーが中止になった経緯もあるので、またしてもツェッペリンは旅の途中で炎上してしまったのだ。
レノンだってそうだ。
隠居生活からやっと抜け出し、『スターティング・オーバー』(1980)は意欲的な作品に仕上がっていた。タイトル曲はヒットチャートを上り始めた矢先の事件。
最愛の夫が目の前で射殺された。ヨーコの苦しみはいかばかりか。
ポールはウィングスとしては『バック・トゥ・ジ・エッグス』(1979年)でロッケストラ(ロックのオーケストラ版)という実験的な試みを行い、しっかりとウィングスの舵取りをしていたが、同時に行き詰まりも感じており、多重録音のソロアルバム制作にも入っていた。時代はテクノポップ全盛。ロッケストラはあまりにも前時代のもの過ぎたのだ(だってザ・フーとツェッペリンとピンクフロイドの面々が一緒に3コードのロックンロールをしてるんだから・・・)。
だから天才ポールが、多重録音でコンピューターミュージックに走ることも分からないでもない。
アルバムジャケットも成田で捕まったときの表情みたいで違和感がある顔のアップ・・・「俺を捕まえるのかぁ!」。
ポール自体1980年5月に発表した『マッカートニーⅡ』(1980)自体、自分の大切にしてきた音楽(ロックンロール)に対して皮肉を込めたアルバムなのではないか。
その意味からもロックの終焉なのだ。1980年、ビートルズの話題に終始したこと。解散して10年で、2度と復活しなくなった事が、終焉したということにしておこう、か。
2012年2月27日
花形