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ディランとの出会い・・・
親戚の家で初めて触れた“よしだたくろう”と“井上陽水”と“かぐや姫”。ちょうど歌謡曲にも飽き始めた私が小学生の高学年の頃のこと。
そういえば、その従姉妹からはビートルズの『ホワイトアルバム』(1968)も教えてもらった。面食いのちえちゃんは、4人のポートレートを見ながら「やっぱりジョージが一番ハンサム!」なんて言っていたっけ。
さて、そんなフォークの洗礼を受けた私は、従姉妹の家から沢山のレコードや音楽雑誌を借り、せっせと自宅で聴く毎日。ちょうどその頃の私は、エレクトーンを習っていたので、映画音楽や海外の軽音楽はかなり詳しかったが、日本のフォークソングはからっきしわからなかった。難しい言葉を唸る人や、歌詞を読んでいるようにしか聞こえない音楽・・・。小学生で理解できる歌詞にも限界があった。
そんな初めて触れた音楽だったが、しばらく聴いていく内になんとも言えない感覚が身体を包んでいった。それは、歌が生きているというか、作り手が言いたいことをストレートに訴えるというか・・・。歌謡曲や映画音楽などではなく、今までに聴いたことの無い音楽だったのだ。
また、借りた音楽雑誌の中にフォークシンガーのインタビューなどあると、そのアーティストの生き様や考え方が出ており、そのシンガーが影響を受けたアーティストの名前などがつらつらと記載されていた。
そして、たくろうも岡林も高石友也も陽水も泉谷も中川五郎も・・・みんなみんなディランって口を揃えて言っていた。とにかくディランって。難しいことはわからなかったがとにかくディランって言っていたのだ。
私はふと思い出した。私の小学生の低学年の頃に流行った「学生街の喫茶店」の歌詞にあった“片隅で聴いていたボブ・ディラン”のディラン。その時、初めてディランがその人なんだと理解した。小学生の私にはそんなレベルだった。
私は中学生になるとギターを弾き始めた。うちの中学校は音楽の授業にギターがあり、最終的にはみんな必ずギターを弾けるようになるのだ。そして、その集大成は自分のオリジナルを作るということ。つまり作詞作曲の課題が与えられた。
中学生の作詞作曲。当然稚拙な歌詞が並ぶか、好きなミュージシャンの物真似に終始するのが落ちである。しかし、自分でとにかく作るということに意義があり、出来不出来は別物なのだ。音楽の教師もそんなようなことを言っていた。
そして私は、従姉妹から仕入れていたアーティストの作品になぞりながら曲を作っていったが、なんとか曲が出来ても歌詞が思いつかない。そして、あることを思い出した。私が好きなアーティストはみんなディランに影響を受けたと本に書いてあったこと。
自分の考えを自分の言葉で伝えるということは、シンプルなようで難易度は高い。でも言いたいことがあれば、それを曲に乗せるだけだ。職業作家の作る売れるための歌ではない。
ディランが歌を作り始め、リーダー的存在になるのは1960年代だ。その頃のアメリカは公民権運動、キューバー紛争とベトナム戦争への介入に沸き立ち、不安定な情勢であった。その時勢を上手くディランは捉えて歌にしていった。そして、それが1960年後半になると日本に伝わり、ディランに憧れてギターを持ったシンガーが竹の子のように出てきたのだ。
日本も日米安保に揺れ、学生運動が盛んで、歌いたいことや訴えることが沢山あったのか、GSブームを蹴散らすようにフォークブームが到来した。私の従姉妹がトチ狂って聞いていた頃のことだろう。つまり、職業作家の作る歌謡曲やGSではなく、自分たちの音楽を若者が作り始めた事実は、ディランやビートルズなどその頃の軽音楽が海を渡ってきてからのことだ。
私が本当にディランに触れたのは日本のアーティストがみんな「すげぇすげぇ」って言うから聴いてみたこの瞬間であって、本当のディランブームからはかなり時間が経っていた。
晶文社の『ボブ・ディラン全詩集』。中学生で3200円は出費だったけど、何かがわかると思って、購入した。歌詞作りのヒントになると思ったのだ。
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代表曲「風に吹かれて」
どれだけ道を歩いたら一人前の男として認められるのか。
いくつの海を飛び越したら白い鳩は砂で安らぐのか
何回弾丸の雨が降ったら武器は永遠に禁止されるのか
その答えは、友達よ、風に舞っている
“結局答えて無いじゃん!”が中学1年の時の私の感想だった。
「ライク・ア・ローリング・ストーン」に至っては、長々と語り尽くし最後の最後で「どう思う?」って聞くんだぜ!そんなのありかよ・・・これが14歳の感想だ。
他の詞も抽象的なものが多く、それがアルチュール・ランボーやウディ・ガスリーの作品に影響を受けているなんてことはその時はよく良くわからなかった。それより、わかりやすい“たくろう”や“泉谷”の方がいいやって思ってしまった。作詞については、ディランを聴いても中学生の私はよく理解できなかったのだ。
但し、わからないながらもディランの全詩集を読み漁ることで、その内容は私の精神的な一部に昇華し、その頃からかちょっとアイロニックに物事を考えるようになった。ちょうど親に対する反抗期にも重なり、理屈っぽくなったこともあの頃読んだディランのせいかもしれない。
ディランを聴き始めたきっかけがそんな形から入ったので、全詩集に取り上げられたアルバムを片っ端から聴いていった。しかし、初期はアコースティックギター中心のHobo Bluesのスタイルを貫いているので、歌詞がわからないと難解すぎてつまらなかった。また、『Bringing It All Back Home』(1965)あたりからエレクトリックギターの導入でロック色が入り始めたが、私がそのアルバムを初めて聴いたのは1977年であり、周りはイーグルスやボストン、エアロスミス、クィーンなどの煌びやかなロックが流行しており、ブルースを基調とした古臭いロックをどこか取り残された気分になりながら聴いていた。しかし、とにかく義務感というか、修行の様に聴いていた。友達になんと言われようと意固地になりながら聴き続けた。『ボブ・ディラン全詩集』を片手に。
途中で辞めてしまうとディランという詩人に嘲笑される気がしたから。
安穏とした時代に生きて、自分の言葉も持たず、お前は何を言いたいの?なんて声がずっと頭の中に木霊していた。もう、ある意味病気である。だからディランを聴くと非常に疲れたんだよね、あの頃。
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さて、ディランの歌詞に注目していた私だったが、ある日気がついた。それは、ディランのメロディ。ディランがただ唸っているだけかと思っていた歌。しかしそこにはちゃんとしたメロディがあるということ。当たり前のようだが、そのことに気がついたのはある時、ラジオから例の「風に吹かれて」が流れていたときだった。そして、つづけて「くよくよするなよ」が流れる。2曲とも女性ヴォーカルだった。そのヴォーカルはPPMのマリーさんなんだけどね。
「あれれ、いい歌。なんてメロディアス。ディランの歌じゃないみたい」
ディランが歌うと妙なメロディになっていたりするが、失礼な話、ちゃんとメロディはあったんだよね。そして意外と素敵なメロディだったりするのだよこれが。ディランは詞にクローズアップされているんだけど、メロディーメーカーということもわかってきたのだ。そして・・・。
たくろうがラジオで話していた1974年のディランのライブ。そのレコードを聴いたとき、私はディランの虜になった。ロックしているんだよ。とにかくロックシンガーなんだよ。『偉大なる復活』(1974)はそんなアルバム。バックのザ・バンドの音もグルーヴしている。
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そのアルバムを聴きながら私はディランのライブを心待ちにし、1986年のトム・ぺティ&ザ・ハートブレーカーズをバックに従え2回目の来日公演で彼を目の当たりにし、自分の音楽の原点を見るようにただただ彼の姿を追っていた。
ディラン。歌詞は相変わらず難解だけど、時よりシンプルなラブソングなんかをいまだに作ったりもする。71歳で発表した『テンペスト』(2012)はジョン・レノンに捧げる歌なども入った大作である。
ディランの日本公演。私は4月3日に会いに行く。もう義務感じゃないよ。
2014年1月5日
花形