『ロケット・サイズ』 ザ・ロケッツ
シーナ&ザ・ロケッツ。シーナが、亡くなった後も娘のルーシーと共に活動を続け、鮎川誠は本当に死ぬまでロックンロールし続けた。2023年1月に愛妻シーナのもとへ旅立ったが、決して忘れることができない日本のロックンロールギタリストだ。先日鮎川誠を送る会が盛大に行われたようだ。
2023年8月16日
K君は転校生。九州・博多からやってきた。人懐っこい性格と独特の訛で、すぐにクラスに溶け込んでいった。
僕の高校は私立の進学校だったこともあり、転校生が来ることは珍しい。みんな彼の周りに集まり、聞きなれない言葉や、九州と東京の違いなどを面白おかしく話す彼の話に夢中になった。
そんな彼はいつも“ぴあ”を持ち、ライヴをチェックしていた。
「こっちは、たくさんライヴハウスがあるからよかね~。見たいモンがいっぱいあるっちゃ。」
K君は学校の帰りによくライヴハウスに行っていた。
彼のお気に入りはもちろん“めんたいロック”である。そしてその中でもシーナ&ザ・ロケッツの大ファンであった。
丁度、細野晴臣プロデュースで話題を集めた『真空パック』(1980)が発表され、その中のシングル「ユー・メイ・ドリーム」がヒットしていた頃のことだ。
そして、僕はK君とよくライヴハウスに出かけた。
新宿ロフトやルイードなど、シナロケはもちろんARB、デビュー前のルースターズやロッカーズなど、彼に教えてもらった博多の音を堪能した。
ライヴ中、K君は突然いなくなる。
舞台を見るとそこにはK君が・・・。忍ばせていた一眼レフを手に持ちスタッフのような顔で堂々とシャッターをきっていた。自分で作った腕章をして、映している姿はまさにプロカメラマンのようだった。
たまに注意されると、
「よかよか!あんた!何言うちょる・・・○△×※#$・・・んで、メンバーが認めとぅとよ!・ほんなこつ!д★^×л・・・・(博多弁でまくし立てられると何を言っているかわからん)」
たいてい、ライヴハウスのスタッフは根負けして帰っていった。
彼のコレクションを見せてもらったことがある。K君とシーナとのツーショットが何枚もあり、石橋陵と田中一郎が楽屋で曲を作っているショット(ARB)、大江伸也が楽屋で酒飲んでいるショット(ザ・ルースターズ)など、本当にスタッフじゃないかと思うような写真がたくさんあった。
彼と行ったシナロケで印象に残っているライヴは、1984年の横浜国大の特設ステージ。文化祭でのステージだったが、妙にR&Bの効いた演奏で、骨太なロックだった。鮎川のソリッドなギターが夜空に溶けていった。
そしてもうひとつ。アルバム『メイン・ソングス』(1985)発表を記念して行なわれたメイン・ソングス・ツアーの目玉である1985年の日比谷野外音楽堂のステージ。
この時期は前年、シーナが産休だったため、シーナ抜きで制作されたアルバム『ロケット・サイズ』(1984)が発表された。ザ・ロケッツのロック魂が炸裂したアルバムだ。僕はこのアルバムの中の「アイム・フラッシュ“コンソレーション・プライズ”(ホラ吹きイナズマ)」という曲が大好きだった。鮎川のぎこちないヴォーカルとストレートなギターが潔いロックを体現していた。
この日のライヴでは、客がステージに押しよせ、何度も中断された。なんせ、シーナが産休を終え、ステージに復帰したライヴでもあるからだ。
鮎川もノリに乗ってすっ飛ばしていた。おまけに、曲もすっ飛ばしてしまい、曲順がメチャクチャになった。
「興奮して、やってたら、曲を飛ばしてしまった・・・。今、照明のプログラムを組み直すけん、ちょっとやけ、辛抱して、まって、くださぃ。(鮎川のたどたどしい日本語)」
照明がコンピューター制御ということを初めて知った瞬間だった。
照明プログラムを直している間、客はザワザワ。鮎川やシーナはすまなそうに汗を拭き、水を飲んでいた。
ふと隣を見るとさっきまで騒いでいたK君がいない。
ステージを見ると、上手の階段部分からステージに向けてシャッターをきっている男がいた!
後日その時の写真を見せてもらった。
鮎川が水を飲み、その水が口からこぼれ、ブラックのレスポールがビショビショに濡れているショットだった。
「ええ写真やろ。ハプニングやけ。ポイント高い。」
彼とは大学に入ってから疎遠になってしまったが、『ロケット・サイズ』を聴くと、今でもこのシーンが甦る。
2006/8/4
花形
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?