見出し画像

『VIVA MARIYA!!』 竹内まりや

 竹内まりやは慶応大学で杉真理らとアマチュアバンドを組んでいた。杉のプロデビューに伴い、コーラス等で参加し、その縁でRCAと契約した。おりしもニューミュージック全盛時で、ニューミュージック界のアイドルとなった。しかし、いくらアイドルといっても“ニューミュージック界の”という言葉が頭に付く。つまりキャンパスギャルが歌を歌っているという印象が強く、本当のアイドルにしては歳がいっているし、アーティストと呼ぶにはまだまだだし、どこにも属さない存在だったのだ。ルックスは、実にアメリカナイズされたお嬢さんという印象で、ハーフかと思うくらいはっきりとした顔立ちだった(実は島根県の竹野屋という旅館の娘。最近ではその旅館は修学旅行のバスコースにもなっているくらい有名になった)。

 歌う作品も林哲司や加藤和彦といった作家陣とLAの一流ミュージシャンでしっかり作り上げられた上質で理知的なポップスだったことは間違いない。
 テレビにもよく出演しており、《ザ・ベストテン》はもとより、《ヤンヤン歌うスタジオ》といったアイドル番組にも出演していた。また、時代が時代なだけに加藤和彦司会の《ニューミュージックショー》という歌番組のアシスタントも勤めていた。この番組はフジテレビ製作、土曜の19時からの30分番組で、いかにニューミュージックが流行していたかを物語る番組でもある(1979年頃)。
 まりやはデビュー当初、作家陣が作る作品を歌うシンガーであった。林哲司、加藤和彦や同じレコード会社ということで、山下達郎の曲も取り上げていた。達郎自身も『FOR YOU』(1982)でセルフカバーした「モーニング・グローリー」はもともとまりやのために書いた曲だったし、まりやのRCA後期作品のほとんどのアレンジは達郎が勤めている。そしてまりやは達郎のステージでコーラスを担当する間柄になっていった。

 達郎との結婚は、世間が騒ぎ立てた。美女と野獣ではないが、みんな?マークでまりやを見ていた。その頃の“週間プレイボーイ”のインタビューで、まりやは恋愛相談で面白い受け答えをしている。
→ 風俗に行く男の人は、哀れだと思う。そんなところでお金を使うのならば、レコードを必死になって探しているオタクの方がよっぽど好き。だって打ち込めるものがあるってことでしょ。彼女がいないから風俗に行くっていうのは短絡的だと思うわ。
まさに、レコード集めのオタクは、達郎のことを言っている。まだこの頃は、付き合っているという話題さえ無い時のことだ。・・・しかし、引き合いに出された達郎はどう思ったのだろうか。

 良い意味でも悪い意味でも達郎と結婚したことが、竹内まりやの音楽の方向性を決めた。
 結婚後は一切表舞台には出ず、シンガーソング専業主婦と呼ばれ、アルバムだけ発表するというそれまでには無かった形態を取った。折しも、ユーミンが結婚してからもどんどんパワーアップし、メガセールスを記録している頃、別のアプローチからメガセールスを飛ばしていたのがまりやだった。在宅アーティストというわけのわからん称号を得、結婚後出したアルバムが『ヴァラエティ』(1984)である。ほとんどすべての曲に達郎のコーラスが入り、達郎色に染まった楽曲もさることながら、このアルバムジャケットがこれまたすごい。まりやが何とセーラー服を着ている。達郎はセーラー服マニアなのかと思った作品だった。
 まりやの作品は誰が聞いても達郎の色が強く出るようになった。デビューから5枚目くらいまでの、ガールポップ然とした溌剌感が薄くなる。初期は多少荒削りな部分もあるが、アメリカの50’sやポップスを踏襲した作りで、その頃のファンも多い。当然歳を取り、大人の作品を歌うことも必要だが、最近のまりや作品は、山下達郎に頼りきりで「女達郎」という気がしてならない。ともすると、“別に達郎を聴いていれば、まりやまで聴かなくてもいいか”という気分になる。
有名な話がある。まりや作品の再生スピードを遅くして聞くと、達郎になるという事実。本当に達郎が歌っている作品に聞こえる。コーラスの雰囲気などアレンジの妙だ。
だから、たまには達郎を離れてみてもいいのではないだろうか。
そういう意味でも、『VIVA MARIYA !!』(1982)は初期のソロアルバム5枚からのベスト盤である。

 初期のヒット曲も満載で、飛び跳ねたガールポップ、シティポップのまりやを聴くことができる。
 決して今のまりやが悪いと言っているわけではない。達郎プロデュースを離れても面白いのではないか、ということ。

2005年11月15日
花形

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?