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「朝までやるぞ!」と吠える吉田拓郎のオールナイトコンサートの考察

 吉田拓郎のイベントといえば「朝までやるぞ!」でおなじみのオールナイトコンサートである。
 拓郎が主催したオールナイトコンサートといえば、1975年にかぐや姫と一緒に開催した「つま恋」。1979年の「篠島」。そして、1985年に再び「つま恋」で開催した3回がある(1987年に南こうせつのサマーピクニックにゲスト出演したオールナイトコンサートもあるが、それは除外)。
 1975年の「つま恋」については、私は参加していないのでビデオや当時の記事、拓郎やこうせつのラジオでの発言、実際に参加された人の話を元に記載するが、このイベントは5万人とも6万人とも言われる観客が一堂に会した当時日本最大の規模のものだった。チケットが売り切れ、実行することが決定した後もその規模感をつかめる関係者が誰一人もいないという、今思えば恐ろしいものだ。
 アメリカのウッドストックやイギリスのワイト島フェスティバルの話は海の向こうからのニュースで聞こえていたが、誰もそんなイベントに参加していないし、オールナイトコンサートで45万人とか60万人も集まるということ自体、当時の日本では誰も想像すら出来ない。そのような中、開催された「つま恋」は、日本ビッグイベントの礎となった。  
 6万人とも7万人とも言われている観客動員数の発表からもそれは読み取れる。
何故なら主催者側が人数を抑えて発表するのが通例だが、何故か警察は主催者側発表より少ない5万人と発表した。事故への対処へのリスクヘッジなどわからない世界で、実際の防犯体制が見合っていなかったのだと推察される。
また主催者側も入場チケットを販売したにも関わらずPAシステムやインフラ、果てはトイレの数からスタッフの弁当の数まで未開の問題で、大層困惑しながらの開催だったという。

 ここで当時の大規模コンサートについて述べなければならない。
 拓郎はつま恋を開催するに当たり、ウッドストックがやりたかったわけではなかったという。
前年にアメリカでボブ・ディランのライブを観て、大勢の観客が一人のミュージシャンを目当てに集まるという、今となっては至極当たり前のコンサート形式を目の当たりにし、そのシステムが日本で出来ないかを模索していく中、話が大きくなっていったという。
 当時の日本は、フォークもロックもマイナーな存在で一人のミュージシャンがコンサートホールを満杯にすることなどできなかった。そして、そのため何組ものミュージシャンが対バン形式で巡業する。当然、客は好みのミュージシャンでは盛り上がるが、そうでないと無駄な時間を過ごすことになる。そんな苛立ちを演者側の拓郎は読み取っていたのだ。だから、自分のファンのためだけのコンサートツアーができないものかという試行錯誤をしていた。
 また、大勢のミュージシャンが出演すると音響も照明も画一化されてしまう悩み。そして、会場ごとに設備も異なるため満足のいく演出も出来ない。また、興業主とのやりとりや運営面での制限も出てくる。
 自分のためのコンサート・・・つまり、音響、照明から特殊効果、グッズ販売などのコンサート運営に至るまでのノウハウが無い当時の成熟していない日本の若い音楽。そのノウハウを知るために渡米し、ディランのためだけに遠方から集まるファンの群れを見ながら日本でのビジョンを思い描いたという。

つま恋1975

 つま恋1975に戻そう。
拓郎が夕方ステージに登場。明らかに目は泳ぎ、声は震えている。一生懸命声を前に出しているが、それは緊張からか、どこかおぼつかない。1時間30分のステージ予定時間を半分の時間で終え、さっさと舞台袖に引き上げて来た時、拓郎は緊張で憔悴していた。
 拓郎はそれまでのステージで「帰れコール」の洗礼を一番受けてきたミュージシャンだった。
フォークのプリンスとしてデビューし、第三回中津川フォークジャンボリーでそれまでの岡林信康の地位を揺るがし、ニューリーダーとなるが、「結婚しようよ」「元気です」「旅の宿」などの大ヒットによりフォークのコアのファンからは商業主義とのレッテルを貼られ「帰れコール」の的となっていた。入場料を払い、拓郎が出てくると「帰れ」を連呼する集団。そのような今では想像がつかない状況を肌で感じている拓郎は「つま恋」が決まっても「5万人が攻めてきたらどうしようか」などといった思いが常にあったという。
かぐや姫のステージ・・・1975年の4月に解散したばかりの3人であったが、拓郎の声掛けにより、急遽再結成。ファンを驚かせたという。

 ステージでは、南こうせつお得意のお祭り騒ぎを行なっているが、どこか地に足が着いていない状況で、とにかくステージを進行させることだけに集中していたという。それほどまでに闇に蠢く5万人という群集は演者を狂わせたのだ。
 舞台裏では各地のイベンターや芸能プロダクションの社長達は、日本で初めて行なわれているビッグイベントに興奮していた。普段は仏頂面の社長たち(田辺エージェンシーやホリプロなど)もその時は拓郎やこうせつたちのセコンドの如く彼らに水を与え、タオルで仰ぎながらサポートしていたという。まだ見ぬ頂を誰しもが感じていたのだ。客席には一般入場で坂本九の姿もあり、若い世代の音楽を肌で感じたようだ。

 ビッグイベントの黎明期は「中津川フォークジャンボリー」や「箱根アフロディーテ」「椛の湖フォークジャンボリー」などが各地で開催されていたが、その集大成が1975年のつま恋であることは間違いない。このビッグイベントがその後のイベントのアイコンとなり数々のイベントを生んでいった。
そして、各地のイベンターも拓郎と一緒に大きくなっていったといっても過言では無い。
それまでの労音や民音、または、いかがわしい興業主が介在する興業の世界にイベンターという新たな職業が生まれた。それまでの権利問題など相当な苦労はあったであろうが、若者の音楽は若者がプロデュースしていくと言う気概だけで突き進んだという。
 1975年の「つま恋」はコンサートだけでなく、その周辺環境をも変えていったターニングポイントだったのだ。

 拓郎のコンサートは男臭い。轟音が響き、それは大津波のように全てを飲み込んでいく。1975年と1979年の2回のイベントについては、「演奏者」「観客」どちらかが倒れるまでやる、という勢いがあり、コンサート自体は和気藹々と進む中にも緊張感もあり、終演間際になると観客は集団ヒステリー状態となっていく。
特に1979年の篠島は島という閉ざされた空間の中でのイベントであったので、拓郎も観客も逃げ場は無いという気分がアドレナリンを増幅させていた。
 走り続けてきた70年代との決別。そしてその集大成とも言えるアルバム『ローリング30』(1978)を体現したイベントが篠島だった。
ラストの「人間なんて」で拓郎は観客に向かい感謝を述べると共に、「お前らも元気で生きろよ。負けんなよ」と叫び続けた。声が枯れても叫び続けた。
演奏が終了し、真っ赤な朝日が昇ったとき、70年代が終わったと感じた夏であった。

篠島1979

 拓郎のオールナイトイベントは4年ごとに行なわれるオリンピックのようなものだ、という話を聞いたことがある。1979年の次の開催は1983年・・・。
1983年頃の拓郎はコンサートとレコーディングに忙殺。フォーライフの社長も辞め、ミュージシャンに徹していた。しかし、オールナイトイベントを企画しようとした矢先に候補地であった「つま恋」でガス爆発事故が発生。開催に「待った」がかかってしまった。
時間だけが流れて行く中、1984年が過ぎ、拓郎の言動に変化が起きていた。
予定調和だけのコンサート・・・特定の曲を演奏すれば盛り上がる・・・それ以外の曲の立場は?70年代を追い続ける拓郎マニアたちの勝手な偶像支配。拓郎の表現したい曲とファンの求める曲とのギャップ。冷めた感覚の拓郎の言葉がラジオから頻繁に聞こえた。
また、「王様達のハイキング」と題したこの頃のコンサートツアー。
拓郎はこのコンサートツアーで母親に苦言を呈されている。「王様」と自分で名乗ることの恥ずかしさ。傲慢さ。母親の言葉が胸に突き刺さった。
そしてプライベートな問題も加わり・・・。拓郎は疲れていた。
 オールナイトイベントは突然発表された。1985年夏開催。前回の1979年から6年の年月が経っていた。場所は「つま恋」。

 イベント開催発表後、「拓郎引退」「拓郎最終公演は、つま恋のオールナイト」等のニュースが新聞紙面に踊った。それに対して拓郎は沈黙を続けた。
拓郎からは「人生最良の日にしたい・・・」というコメントだけが発表され、その言葉だけが一人歩きをしていた。

 1985年夏。つま恋。
何の気負いも無く、その人はゆっくりと少々猫背な姿勢で我々の前に現れた。そして、マイクで「愛しているぜ!」と、いきなり叫んだ。
「今日は俺の人生最良の日にしたい。それを手伝ってくれるミュージシャンを・・・」
と、メンバー紹介が始まった。
いつものイベントなら雄叫びと共に「ああ青春」から始まっていたが、ちょっと調子が狂った。
 1985年6月に発表されたアルバム『俺が愛した馬鹿』のレコードジャケットにはテレキャスターのデザイン。そして見開きには拓郎自身を葬るかのように墓標が描かれていた。
そう、引退説が確実視されたのは、このイベント直前に発表されたアルバムのデザインにも関係している。拓郎は、死に場所を求めてこのイベントを開催したのか。
 拓郎はそれまでのイベントのような気負いも無く、リラックスしながらステージを進めていく。ゲスト出演するミュージシャンたちは、口を揃えて「拓郎、引退するな!」と熱くコメントを入れる。当の本人はにこやかにその風景を見ているだけ。
そんな雰囲気で進められているので、客もそれまでのイベントには無い、とても落ち着いたものであった。そこには1979年の「篠島」と同じ緊張感は存在していない。
 あの頃とは時代も違うし、我々の置かれた場所も違う。そして一番の違いは拓郎のテンションだ。
とにかく叫ばない。淡々と歌う。ゲストが来たらまるで「さんまのまんま」の明石家さんまの如くゲストのエピソードを話し、歌に入る。
 2部が終了し、深夜0時を過ぎてもコンサートは淡々と進む。途中近隣住民から苦情が入り、PAの音量を下げるという一幕もあった。そんなこともあり、なぜか冷めた印象のイベントだった。
 太陽が昇っても全ての曲が終了していなかった。いつまでやるのか、という雰囲気になっていた客もいた。それは誰もが「拓郎」と叫びたかったのかもしれない。そしてオールナイトコンサートをやりきる達成感を味わいたかったのかもしれない。

つま恋1985

 最後の曲は「人間なんて」でも「アジアの片隅で」でもなく、「明日に向かって走れ」だった。早い8ビートにアレンジされ、歌い回しが変わっていた。そして延々続く青山徹のギターソロ。
演奏が終了し、拓郎が舞台袖に消えた時、私は「拓郎はもうステージには上がらないのではないか」と思ったほどだ。最後まで肩の力が抜けたステージだったからだ。
但し、拓郎の最後のオールナイトは決して不完全燃焼のイベントではなかったはず。ただそれまでのイベントとは趣が違っていたということだけだ。ただ、それだけだ。
 それから2年間拓郎はステージに立たなかった。映画出演。テレビのレギュラー出演などそれまでの活動とは異なった動きを見せていた。
それは、本格的に全国ツアーを再開した1988年4月まで沈黙した。そして1988年のステージは衣装もスーツとなり、随分大人の雰囲気になってステージに帰ってきた。それまでのパワーで押すタイプではなくなっていた。

 拓郎のコンサートに行くと、いまだに観客の中から「朝までやれー!」という野次が飛ぶ。70歳を超えたミュージシャンと同年代の観客。それは到底無理なことだが、本音でもある。
拓郎は笑ってスルーし、「あんたらそんなことしたら、もう死ぬよ!」とつぶやく。
でもその言葉には「朝まで伝説」を駆け抜けた男だから言える凄みもある。

オールナイトコンサート。
時代を創り、切り開いてきた男の仕事である。

2016/11/6
花形

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