映画「レッド・ツェッペリン 狂熱のライブ」
友達のMが待ち合わせ時間に30分も遅刻してくるものだから、僕たちは飯田橋の駅から全速力で映画館に向かって走った。息が上がり、ふらふらになりながらチケットを買ったときはもうすでに上映時間を3分ほど過ぎていた。
重い映画館の扉を開けると、暗闇の向こうに上映の明かりが見えた。
目を暗闇に慣らしながら空いている席を探す。
するとM君が僕のシャツを引っ張りながら「おい、間違えてないか?」と画面の方を見て言った。
僕たちは「レッド・ツェッペリン 狂熱のライブ」と「ウッドストック・愛と平和の3日間」を観に来たはずなのだ。しかし、画面には音楽映画の雰囲気は無く、クラッシックカーから降りてくるマフィアのような大男。
「あれー!間違えて入ったか?もしかしたら地下の方の映画館だっけ・・・ギンレイホールは地下にも映画館があるから、そっちかぁ~?」なんて小声でいいながら2人はロビーに戻って来てしまった。そして、モギリのおじさんに尋ねた。
「すいません。ツェッペリンを観に来たんですが、映画館、間違えちゃってますか?」
すると、おじさんは、
「いーえ。今上映している作品はツェッペリンですよ。ほら、早く入って入って」と急かされてしまう僕ら。
首を傾げながら2人は再び映画館の中に・・・。
すると、さっきの大男がマシンガンをぶっ放した!撃たれた男の首が取れ、緑色の血が噴き出る・・・B級映画のアクションシーンにも劣る演出。これが、ツェッペリン?
そう、とんだ茶番の演出から「レッド・ツェッペリン 狂熱のライブ」は始まる。
この映画、ニューヨーク、マジソン・スクエア・ガーデンの3日間の公演の模様を捉えているが、映画にするには出来が悪く、2時間強の演奏シーンしか使えなかったという有様。映画作りの素材どりの時点でとてもアバウトだったようだ。そしてもう一つこの映画を難解にしているもの・・・。
それは、もともとただの音楽記録映画を作ろうとは思っていなかったようで、メンバーの内面をフィクション仕立ての映像にしてメンバー自身が表現するシーンを作ること。
ジョン・ポール・ジョーンズはツアーやライブでのアクティブな部分と穏やかな家庭人との2重人格的な表現。
ロバート・プラントはケルト神話に出てくる王子様キャラクター。
ジミー・ペイジは、タロットカードの隠者に翻弄される男。一気に歳をとってしまう男。
ジョン・ホーナムは破天荒な趣味と家族を愛するありのままの姿・・・。
そして、映画冒頭の大男はプロデューサーのピーター・グラント、そしてツアーマネージャーのリチャード・コール。この2人が敵対するギャング(海賊盤業者)を殺戮していくという演出であると知ったのはずっと後年になってからのことであった。
1976年公開のこの映画。
当時の音楽専門誌などを見るとかなり評判が悪い。また、この映画のサウンドトラック盤として発表された『永遠の詩(狂熱のライブ)』の渋谷陽一のライナーノーツには辛辣な言葉が並べられていた。
何故1976年の今、1973年のライブなんだ!
新しいアルバム『プレゼンス』が発表されているのだから、そのプロモーションから考えてみてもぼやけてしまわないか!
途中に入る演劇部分は果たして必要なのか!などなど。
ツェッペリンフリークの音楽評論家の渋谷陽一が言っているのだから、本当に良くない映画なのかな、などと思う高校生の僕。
そんな大人の意見を受けながらも、当時はミュージックビデオも無い時代で映像は映画館に観に行くことしかできなかった。であれば、何度も何度も通ってツェッペリンワールドに浸り頭の中に焼き付けるしかない。カッコイイと思う反面、ジミー・ペイジは本当に上手いのかなぁなんて感じの繰り返し。
しかし、今思うと、2003年に2枚組公式DVDが発表されるまで、この演劇と演奏の合体した映画がステージのツェッペリンを観ることができる公式作品だったことは驚きなのだ。
(稀に『スーパーセッション』での「幻惑されて」や初期PVの「コミュニケーション・ブレイクダウン」などあるが・・・)
そして、ライブ盤に至ってはサウンドトラック盤として発表された『永遠の詩(狂熱のライブ)』が公式ライブ盤としての認識となり、それ以降は1997年に発表された『BBCライブ』まで待つことになる。
映像作品も音源も4人が揃っていた頃は「狂熱のライブ」しかない、ということ。
これってどういうことなんだろう。
金にうるさいピーター・グラントがもっとライブ盤や映像作品で儲けようと思わなかったのか、と素直に思う。
キーマンはジミー・ペイジなのだろうけど、相当ライブには神経質だったらしい。日本に来ても海賊盤屋に入り浸りでツェッペリンの海賊盤を買い占めていったなんて噂もある。
改めて、これってどういうことなんだろうね。
「狂熱のライブ」はDVDを購入したので家でよく観る。2003年のDVDよりも「狂熱のライブ」の方を多く観てしまう。変な演劇が入っていても観てしまう。これはつまり、ティーンエイジャーの頃の感受性豊かな時期に体感した「音」と「映像」がしっくりくるということなのか。
「狂熱のライブ」を映画作品として観ると、レッド・ツェッペリンというバンドをぼんやりと表現した感じ。イギリスのロックバンドがアメリカ公演を行い、なんだかいろいろな事件があって、最後は売上金を取られて専用機でのほほんと帰るって話だからね。
しかし、音楽好きのロック好きであれば、演奏シーンのカッコよさはピカイチ。手足の長いジミー・ペイジやギリシャ神話に出てきそうな半裸のロバート・プラント。ひたむきなジョン・ポール・ジョーンズのプレイやワイルドなプレイのボンゾなど、シーン毎がそれぞれ名場面だ。本当に何度も見直してしまう。
ギンレイホールはまだまだ健在の名画座。地下の映画館は成人映画専門館だったが、今はもう無い。
音楽映画は、本当は映画館で観るものだ。DVDで満足してはいけない。
閉ざされた空間で2時間集中してハードロックに浸かること。この醍醐味を感じることができた作品だから、演出内容はともかく未だにベストな作品として僕の心にあるのだ。
こういう音楽映画・・・たまには映画館で観たいもんだ。
ツェッペリンもマッカートニーもウッドストックもザ・バンドもレット・イット・ビーも・・・。
2021年9月14日
花形
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