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矢沢の思い出

 矢沢永吉は今年もツアーに出る。12月には日本武道館で4日間の公演も控えている。
ド派手なマイクパフォーマンスやしっとりしたバラードなど最上級のエンターテイメントを見せてくれるに違いない。現在74歳。
 健康サプリメントの宣伝にも出ているが、決して老いを補うという観点ではない事がわかるCMだ。
今から7年前のブログにはビールの宣伝を軽やかステップで行なっている事が記載されている。
アルコールから健康サプリメント…。
時代の流れか。
2023年10月2日

 サントリープレミアムモルツの広告の中で66歳の矢沢永吉がポーズをつけている。ダンディな佇まいであり、ここ何十年も変わらない姿でもある。
この姿を維持するためにどれほどの努力をしているのか。しかし、きっと本人は「矢沢」が好きだから苦労とも思っていないのだろう。

 私が初めて矢沢を目撃したのはコンサートでは無く都内の路上だった。私が大学生の頃、表参道を歩いていると、前から全身グレーのスウェットスーツに身を包み、異様なオーラを出しながら早足でウォーキングしてくる男がいた。
その男が私の3m近くまで来た。そこには、目深に被ったフードの奥に汗まみれの矢沢がいたのだ。
私は「あっ!」と驚き、一瞬にして中学生の頃の自分に戻った。
“永ちゃんだ!わーっ!サ・サイン?あ、握手?”そんな思いが私の中で反芻する。その横を矢沢は何かに取り憑かれたように一点を見つめ足早に通り過ぎていった。その顔には玉の様な汗が付着し、歩くたびに滴り落ちていた。減量に苦しむボクサーのように誰も寄せ付けず、そしてその男に私は声も掛けられず、彼の後姿を目で追っていた。
 矢沢はどこでも矢沢だった。

 私は小学校の音楽の先生が好きだった。その先生は矢沢好きで、その影響から『A DAY』(1976)から聞き始めたが、中学に進学し、矢沢永吉の話題を友人たちにすると、皆ちょっと冷めた感想を述べ始めた。
 時は1970年代半ば。日本のロックなどほとんど認知もされず、市場的にも成熟していない。「日本のロックなんて」とよく言われた時代だった。なぜなら経営側は“儲からない”からであり、聞く側は“カッコわるい、洋楽の真似でしょ”と言った具合。
しかし、私は“音楽に国境もジャンルも無い”という意識で幅広く音楽を聴いていたので、何故日本のロックが軽く見られるのかということが理解できなかった。「矢沢よりエアロスミスだよ」などと言われても比べるものでも無いと思ったが、一般的にそういう意見が多く、私の考えなど話にならなかった。
そういった時代の中、矢沢は独り奮闘していたのだと思う。
 私が中学2年の夏、矢沢永吉は後楽園球場でコンサートを行なった。キャロル解散後、1975年にソロデビューし、年を重ねるごとに「渋谷公会堂」「日比谷野外音楽堂」「日本武道館」とスケールアップしていき、3年で「後楽園球場」にたどり着いた。
「日比谷野外音楽堂」のバッキングメンバーはサディスティックス。翌年発表したアルバム『ドアを開けろ』(1977)や『ゴールドラッシュ』(1978)はそのメンバーに木原・相沢(NOBODY)のギターや坂本龍一など豪華なメンバーが絡み、70年代の矢沢の集大成となった。

 矢沢は常日頃から「ビッグになる」と公言し、有言実行で本当にでかくなっていった。そして同時期に激論集「成りあがり」を発表。矢沢の人気は頂点を極めていった。
 富士山山麓に豪邸を建て、ガレージに無造作にポルシェが停まっている写真などを見たとき、私は、本当にロックスターなのだと思った。イギリスやアメリカのロックスターが大豪邸に住み、フェラーリーやポルシェを下駄代わりに使うことは当たり前と思っていたが、日本でそれを実現した人がいるのかと思い、とても驚いたものだ。

 テレビに出るといっても音楽番組には出ず、NHK教育テレビ(若い広場)でインタビュー。そんなことする日本のミュージシャンなんていなかった。
“音楽なんてレコード聴けばわかる”“コンサートに来てくれれば絶対楽しませてやる”
“テレビに出て語るということ、・・・つまり、矢沢そのものの声を届けたい。週刊誌やわけのわからない活字でいい加減に伝えて欲しくない。だから音楽に懸ける思いは自分の言葉で伝えたい”
ものすごく、自分がわかっている人なんだと思った。セルフプロデュースがしっかり出来る人。だから、ブレない。
 そんな矢沢がアメリカに行って勝負すると言った。“アメリカを視野に入れている”とテレビで唾を飛ばしながら語る姿を見て、私は“ちょっと危ういな”なんて思ったりもした。いくらなんでも日本のミュージシャンが外国で勝負するなんて誰も考えていない時代だったからだ。

 それまでにアメリカで日本のミュージシャンがヒットを飛ばすなんて坂本九しかいなかった。その坂本九の「上を向いて歩こう」にしても、たまたま1962年イギリスのケニー・ボールが来日し、そのメロディーを気に入り母国に持ち帰ってレコーディングしたことが始まりで、その流れからアメリカのDJが元歌を調べ始め、最終的にキャピトルと契約し、ヒットした。つまり、“売った”のではなく“売れた”ということだ。・・・そんなフロックはさておき、矢沢は殴りこみをかけると言う。
ジャズのインストゥルメンタルならまだしも、言葉の問題があるだろうと矢沢ファンの私でさえ思ったくらいだから、一般の音楽ファンは呆れたコメントを垂れ流していた。

 1980年渡米。レコード会社も移籍し、アメリカではアサイラムと契約した。そして2年後、本当にドゥービー・ブラザースのメンバーを連れて凱旋公演を行なった。この模様はテレビ中継もされ、矢沢があの頃のままのテンションでバンドメンバーと英語で会話しているところも放映された。本当にびっくりした。なぜ、ドゥービーだったのかは置いておいても、ロックのトップミュージシャンが矢沢のバックにいることが衝撃だった。それまでは、ジャズの世界であれば、渡辺貞夫や日野皓正などはリー・リトナーやジョン・スコフィールドと競演したとか、デイブ・グルーシンとアルバムを作ったなどという話はあったが、ロックのジャンルで世界と渡り合っているミュージシャンなどいなかった。しかも、バックバンドにしているなんて考えられなかった。
私が高校3年の夏の出来事だった。

 それから、私はバンド仲間や音楽好きと話をする中で、「日本のロック?ぜんぜん駄目だよ。でも矢沢は別。好き嫌いは別としてあれには何も言えない」という言葉を多く聞くようになった。認めさせてしまう行動力と結果が矢沢の生きる糧なのか。
 そんな矢沢でもアメリカでの当初の活動は、決して順風満帆ではなかったようだ。アメリカに渡り発表したアルバム『YAZAWA』(1981)は、アメリカでは2,000枚しか売れなかったというし、レコーディングをしていても意思の疎通が中々上手くいかなかった。しかし、その後『YAZAWA It's Just Rock'n Roll』(1982)の中の「ROCKIN' MY HEART」がヒット。1982年の凱旋公演につながる。矢沢は、日本で相変わらず長者番付トップを維持していたが、アメリカからは離れようとせず、結果的に『FLASH IN JAPAN』(1987)を発表。全米での売上げ枚数は5万枚となり、彼の言う「おとしまえ」をつけた形となった。
私が大学2年の初夏のことだった。

 それからの矢沢の弾け方はここに記す必要も無いだろう。イギリス・ウェンブリースタジアムでロッドやボン・ジョビと競演、2014年までに日本武道館公演は132回を数え最多公演記録を更新中である。

オーケストラとの競演やディズニーでの歌唱など矢沢のフィールドは限りなく広がっている。そしてハードなコンサートに向けての準備も怠らない。66歳の鋼の身体は1日では成り立たないのだ。
 サントリープレミアムモルツの広告の中の66歳の矢沢永吉は、今でも表参道をウォーキングしているのだろうか。

2016/1/8
花形

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