北野天満宮の古井戸1
京都の古社の一つ、菅原道真を祀る北野天満宮。創建は平安時代にさかのぼる。境内には創建時の井戸と推定される古井戸もある。井戸一つとっても、中心市街地にあるとは思えないほど古格な社だ。北野さんと北野さんにまつわる神社の古井戸を追った。
秀吉、大茶湯の井
群雄割拠の戦国時代、織田信長が天下統一の後、部下の明智光秀の謀反によって本能寺で焼き討ちに遭い憤死。代わって天下を取った豊臣秀吉が九州を平定し京に聚楽第を築造した1587(天正15)年11月1日(旧暦10月1日)、北野天満宮の境内で天下人のお披露目となる大茶湯(おおちゃのゆ)を催した。そのとき茶湯用の水を汲んだ浅井戸跡が楼門前の「太閤井戸それに北野天満宮の管轄外ながら、大鳥居を入ってすぐ左手にある細川忠
興(雅号は三斎)の茶室「松向軒」脇に計2カ所も 残っている。また京都五花街の一つ、上七軒の真ん中にある西方尼寺には大茶湯の際、千利休が使ったという利休井戸もある。
境内には平安時代に創祀時の井戸や境内に隣接する東向観音寺(かつて神宮寺だった旧朝日寺)弁財天の井戸を含めて、数えただけでもざっと10カ所もあり、屋外で立ち入りできない場所や建物の屋内にある井戸を含めると20数カ所の古井戸があるという。境内の屋外にある井筒のある井戸のほとんどは井戸の地中にパイプが敷設され、今でも水が使われているという。井戸水は数年に一度、水質検査を受けており、神社では飲む人によって腹痛などの訴えがあることを懸念して飲用を薦めていない。
社域東に松葉川
楼門を入ってすぐ右手の手水場と東門を入ってすぐ右手にある竈(かまど)社の左手前の手水場は水が出っぱなし。原則として近場の井戸水を使用しているが、パイプでつながっている井戸水も含まれることもあるという。竈社右隣に茶室「名月舎」の井戸水は比較的新しく、お茶会の際には現役で使われている。連歌所井戸の近くにはみたらし池の湧水、水占いみくじ場の湧水があり、昔日の湧水箇所を彷彿とさせる。
かつて神社境内の東側、東門のわきを松葉川(西大宮川)が流れていた。神社境内がクロマツの松林で、落ちた松葉が川一面に漂ったことから川名が付いた。西側を天神川支流の紙屋川が流れ、境内はまるで砂洲状態であちこちから伏流水が湧き出ていたという。松葉川はいまでは蓋をかぶされ、東門の前は太鼓橋のようになって、かつての流路の面影を残すだけ。江戸時代後期には、この境内地の伏流水が大宮御所、仙洞御所の御用水として使われていた。
西には紙屋川
紙屋川はかつて上流域で和紙の原料となるミツマタ、コウゾをさらして砕き、その木の皮の繊維を使って川の水で和紙を作る紙屋さんが多く立地し、和紙を御所に納めていたことから名付けられた。
【 西ノ京・妙心寺道辺りの紙屋川。2022年8月17日、雷雨の後で増水 】
紙屋川は秀吉による「お土居」の建設でさらに深く掘削され、両岸が石積み護岸に。西ノ京を流れる紙屋川は両岸がコンクリート護岸になってしまった。大雨以外を除いて平時の水量は少なく往時の清流の面影はない。
これらの井戸うち現在井筒だけ残っている井戸は表向き休止状態だが、地下パイプでつながっているという。個別の井戸は電動ポンプで汲み上げれば、その場でかなりの量の水が望めるという。いずれも国指定遺跡か重要文化財クラスなのに何の指定もない。宝物館には名刀などが保管・展示されているが、神社の宝物は古井戸そのものではないとか思った。井戸で観光客を集められるかという集客の観光スポットにふさわしいかという疑問も出されるが、誠にうらやましい限りだ。
北野天満宮は茶の湯と縁が深い。毎年2月25日には京都ご花街の1つ上七軒の芸妓さんたちによる野点がある。11月26日には御茶壷奉献祭と茶壷の口切式、12月1日にも裏千家など4つの家元と堀内家など2つの宗匠が6年ごとに輪番で奉仕して神前に供える献茶式が行われ、一般の参拝客もお茶を楽しめる献茶祭もある。せっかく、これだけお茶の縁があるのだから、普段からもっと気軽に茶屋に立ち入り、井戸水を使った薄茶と茶用の和菓子をセット価格1000円程度で提供すれば観光客に喜ばれること請け合いだと思う。井戸水ガウリだ。
しかし、地下水源は神社の占有物ではなく、地下水を利用して商売はできない。地震一つで水脈が変わり、水枯れの心配もあり、井戸の管理は誠に難しい。神社ではこれらの井戸のうちいくつかについて国の重要文化財か国史跡の指定を受けたい考えのようだ。