ノリ・海苔
東京湾・内湾の代表的な産物ノリ・海苔づくりについてざっと概観した。
文中、ノリのカタカタ表記は乾燥以前、海苔は乾燥して枚数で数えられる製品のなってから、として使っている。
内房の海苔養殖起源
内湾での養殖の始まりは江戸時代初期。大森海岸で始まった。晩秋から初冬にかけて、ノリが木や竹の枝の葉を落としまとめて一束に縛ったソダヒビにくっつくのを見つけたのがきっかけだった。18世紀半ばには幕府に海苔業税を納めた記録があり、幕府や徳川御三家に「御前海苔」の名称で献上されたという。産地にちなんで「浅草海苔「「品川海苔」などとも呼ばれた。
東京湾がまだ浅草辺りまで入り込んでいて、浅草川(現在の墨田川)河口域の干潟で魚を採捕するタケヒビ(おそらく柴漬け漁のタケヒビ)に海苔が生えることを知ってソダヒビ養殖が始まり、これを大森の漁民が養殖を実行したといわれている。 当時、浅草は和紙の生産が盛んで、和紙の製法をまねて、ヨシ(アシ)を編んだ簾(す)に海苔を付け込んだといわれている。
内湾の内房に伝わたのは、やはり江戸時代の後期に望陀郡人見村(現在の君津市)の小糸川河口域の干潟だった。大森が目黒川と多摩川河口に近いことから、江戸からノリ仲買人の近江屋甚兵衛が小糸川河口域の干潟を見て、「ここでもできるのでは」可能と思い、村名主ら有力百姓を誘い、ノリの製法を伝授したのがきっかけだった。1822(文政4)年のことだったという。
ノリのソダヒビ養殖は近在の村々に伝わり、江戸川河口域の浦安など北西部の村々にも伝播した。1900年代初めには内湾中で生産が始まった記録がある。近江屋は当初、小櫃川左岸の河口域、久津間、江川地域で試みようとしたが、体よく断られたという。久津間、江川地区で栽培が始まったのは明治時代に入ってからだったという。
明治時代半ばごろから、孟宗竹を干潟に打ち込んだ支柱柵を設けて網を張り、ここの海苔が生えるようにした。網は初め、稲わらで編んだ網だった。すぐに切れるため、棕櫚(シュロ)のヒゲで編んだ細いシュロ綱を使ったシュロ網に変わった。シュロ網は化学繊維の網にかわるまで第二次世界大戦の終戦後の1950年代まで使われた。
支柱柵の棒建て
ノリ養殖の干潟は大潮の満潮時で深さ2~5㍍の場所だった。支柱柵を設ける作業は一家総出で親類も手伝った。孟宗竹は専門業者が漁家に売り歩いた。竹を長さ4~6㍍に切り、竹の節を長くて細い鉄棒でくりぬいた。竹が砂地に埋まる部分には竹を斜めに切って切り口に竹串を刺して砂地に埋め込み、風波で抜けないように工夫した。夏場、干満の差がほとんどない小潮で漁を休む「潮間(しょま)」の仕事だった。
支柱柵づくりは「棒建て」といわれた。だいたい8月下旬から9月半ばごろまで続いた。
孟宗竹を作る農家が少なくなり、孟宗竹の資材が不足し出すと支柱はFRP(繊維強化プラスチック)製に変わった。FRP資材は価格が高い。1980年代ころだ。毎年、孟宗竹を買い求めることをしなくなってFRPが高値とはいえ設備投入費用はとんとんだった。このころになると干潟のほとんどが埋め立てられていた。
支柱柵の場は岸の近い場所を「タカ」と呼び、この沖合を「オキ」と呼んだ。設置する場所は地先漁業権を持つ漁家のくじ引きで決めた。漁家一軒でタカとオキを含めて3,4カ所の割り当てがあった。場所によってノリの生え方の良し悪しがあり、場所に当たり外れがあった。ノリの収穫高が収入の多寡につながったので、くじ引きは真剣勝負だった。
網にノリが生えるかどうかはこれまた運任せだった。ノリの胞子が夏場、牡蠣殻など貝殻の真珠質に潜り込み、水温が下がる初冬にノリが生えだすことが分かったのは1949(昭和24)年、英国の女性藻類学者がノリの胞子の糸状体を見つけ、ノリのライフサイクルを明らかにしてからだった。この発見から日本でもノリの研究が進んだが、内湾で人工種付けが始めるまで10~15年かかった。
棒建てが終わると、次はシュロ網の網張り。網は幅1・5~1・8㍍、長さ約18㍍だった。早くて水温が下がり始める9月半ばごろ。11月にはほとんど網を張った。網は支柱の孟宗竹につないで固定した。ノリは下げ潮時に干出することが大事だった。理由は分からなかったが、ノリの生育上必要だった。ノリの生育サイクルに干出が不可分につながっているからだと思う。
ノリ網の買い付け
ノリの当たり外れは漁家経済に大きな影響を与えた。冬場気温が高く、水温が下がらないとノリは外れ年だった。漁家は仕方なく、ノリの種が付いた網の買い出しに出かけた。買い出し先は本場の東京・大森やノリが豊作となった場所の千葉県側の船橋、稲毛、黒砂(千葉市)、遠くは宮城県松島湾の漁家まで出かけた。松島湾での生産の主体は藻の葉が広がっているアサクサノリではなく、寒冷地でも育つウップルイ系だった。ウップルイ系はアサクサノリに比べて価格が格段に安かった。ウップルイ系は藻の葉が細く、風波に強くて千切れなかったが、白が真っ黒でなく、焦げ茶色系をしていた。韓国産もこのウップルイ系が多く、味付け海苔の焦げ茶色した韓国からの輸入モノはウップルイ系のノリだった。
拾いノリ・桁(けた)漁
ノリの不作を補うため、漁家のほとんどは風波で千切れ海面を漂うアサクサノリを拾い集める「拾いノリ」をした。網の入り口の木枠をつけて網の上部にもアバと呼ぶ浮きをつけた袋網を機械船でノリの千切れが漂う表層を引いた。この拾いノリを「桁(けた)と呼んだ。桁で拾ったノリにはコアマモやアマモの切れ端やカワナと呼ぶ海草、小エビなど仔魚が混じった。このノリ以外の雑物を取り除くのに漁家は一家総出で夜なべで作業した。海草などの不純物の除去にはピンセットを使った。
戦後間もないころ、夫を戦死で亡くした女性が小さな網を持って浜辺で大腿(だいたい)まである長靴「腿(もも)長」をはき、波しぶきを浴びながらノリ拾いする光景が良く見られた。これらの女性たちはまた、干潟でアサリ掘り用の小さな熊手を使い、干潟の岸寄りでアサリ取りをした。漁業権がない家の女性でも、漁家はこうした女性たちを大目に見て「働き手がいなくて、子供もいるから生活が大変だ」と気遣い、とがめることは決してしなかったし、注意さえしなかった。
牡蠣殻の種付け
内湾の西上総地域の漁村で、牡蠣殻による胞子の種付けが始まったのは1960年代に入ってから。英国の女性藻類学者がノリの糸状体と発見し、ノリのライフサイクルを解明してから12年以上も経っていた。この間、日本でもノリ養殖研究が盛んに行われた。旧陸軍幹部だったことからレッドパージを受け、戦後、代用教員から中学校の家庭科・理科の教員となった祖父もノリの研究をし、研究論文も書いていた。祖父は陸軍に入って間もなく離縁して家にはいなかったが、子供だった私の父親にはそっと牡蠣殻への種付けの仕方を教えていた。
まず、一番黒光りした出来の良いアサクサノリを冷凍保存。9月に入ると解凍して、ひき肉を作る際に使う目の細かなミンサーにノリをかけた。細かくなったノリは牡蠣殻を入れたビニールを底に引いた平箱に入れる。1週間ほど経ってから、漁師たちは小型の顕微鏡を使って牡蠣殻に胞子が入って糸条体ができているかどうかの確認作業をした。毎日毎日続けた。糸状体は貝殻の白い部分で黒い斑点に見える。糸状体ができると牡蠣殻は真っ黒になった。これで糸状体ができたことを確認すると、9月下旬ごろ、この牡蠣殻をナイロン製の袋に2、3個入れて、固定網にぶら下げた。
自然にノリの胞子が付く栽培の場合、支柱柵に張る固定網はせいぜい2,3枚だが、この牡蠣殻を使った栽培では固定網を数枚から10~15枚程度張った。網が海水より下になると糸状体は牡蠣殻から抜け出して、網に張り付いた。11月中旬ごろだった。網に付いた糸状体が育ち、1~3㌢程度育ってくると網が黒くなる。漁師たちは「種付けがうまくいった」と喜んだ。この種付けが成功した網はすべて引き上げて大型冷凍庫の入れた。摂氏20~30度以下で冷凍すると保存が効き、いつでも取り出して網をはることができた。
この網を張ると早くて11月下旬から12月初旬に新ノリが採取できた。新ノリは葉が柔らかく、焼くと真っ青な色に変わり、芳香を放った。新ノリとはいえ数回採取を繰り返すと葉が硬く乾燥するとごわごわになった。そうすると、古い網を外して冷凍してあった新しい網を張った。冷凍庫には30~50枚にノリ網を保管した。最初は冷蔵庫の冷凍庫だったが入りきらず、専用の冷凍冷蔵庫を持つようになった。こうして、いつでも新ノリができるようになった。新ノリは高値で取引されるので漁家には喜ばしいことだった。消費者にとっても、いつでも新ノリをたべられることになった。
沖合展開ベタ流し
支柱柵だけでは足りず、水深10~30㍍の沖合にノリ養殖場を新たに設けた。ノリ養殖の沖合展開で、ベタ流しと呼ばれた。1970年に開発され、西上総地域の漁村では導入が早かった。干潟のない国内各地の浅海でノリ養殖ができるようになったのは、このベタ流しができるようになってからだ。ベタ流しは最初、重さ20㌔㌘程度のイカリを海底に入れて固定した。しかし、強風や水流でベタ流しそのものが流されることがあり、ベタ流しを固定するため、長さ20~40㍍の接続した金属棒を海底に打ち込んでベタ流しの網を固定するようになった。
この固定用支柱は網を張る分だけ立てた。支柱の根本にロープを張って大きな浮き球につないだ。この浮き球に木の枠の網をつないだ。こうした一連のベタ流し設置作業は漁村集落の海苔漁家が総出の共同作業だった。今も同じだ。ベタ流し網は漁家1柵の限定だったが、網を20枚程度も張れた。ベタ流しが別のもう一つあれば、漁家の割り当て柵は増えた。網は常に海面に浮いている状態で、支柱柵に比べてノリの生育も早く、できも良かった。ベタ流しが国内各地に普及して水深の深い場所でもノリ養殖が可能となり、ノリの生産量は飛躍的に増大した。
ノリ道具
1950年代半ばごろまで、ノリは水揚げすると未明から作業が始まった。未明からでないと朝方からのノリ干しに間に合わなっか。まず、ノリの葉を細かく切り刻むことから始まった。昭和時代初期は刃が3、4枚の大型包丁で手で刻んでいた。昭和時代半ばごろにはこの大型包丁をゴムで結わいて天井から吊るし、包丁を下に引っ張って刻んだ。刻む台は直径1㍍前後、厚さ約20㌢のケヤキ材を使った。そのうち、手回し式ミンサーに変わった。ミンサーはその後、電動式となった。
ノリをアシ(ヨシ)の編んだ簾(す)に付けるのは手作業だった。ノリ養殖は始まった江戸時代、和紙作りの産地だった浅草の紙すき作業をまねてノリすきが始まったとされている。ノリを付ける木製の型枠があって、簾を下にひいた型枠にノリを流し込んだ。ノリの大きさは現在、原則として縦21㌢、横19㌢となっている。このサイズが全国的に統一されたのは1970(昭和45)年ごろか、少し前ぐらいとされている。それまでは産地のよってまちまちの大きさだった。簾の大きさは縦横ともノリのサイズより3㌢ほど大き目の大きさ。簾は漁家がそれぞれ、ヨシを刈り取ってきて天日干しして手編みで編んで調達した。
ダイズ、オオサカ
ノリを干すのはダイズとオオサカを使った。ダイズは設ける場所によって異なるが、だいたい長さ20㍍程度。高さ1・5㍍程度。スギ丸太を5㍍間隔ほどに斜めに立てて、丸太に孟宗竹を通しで渡して、そこに稲わらを敷き詰めてまた、孟宗竹でわらを挟んで荒縄で結わいた。孟宗竹を渡す間隔は簾を間に入れて上に4、5㌢程度の隙間ができるぐらいに作った。簾はノリを貼り付けた方を裏側にして竹串で止めた。ダイズはノリの生産量によって一枚だけでなく2、3枚設けた。天候が曇りになると簾をひっくり返してノリの付いた方を表にした。ダイズに干す時は天気予報で終日晴天の日に限った。突然の降雨の際、ノリの付いた干した簾を取り込むのが大変な作業だったからだ。
天気予報でノリが干し終わる前に雨模様という日は、障子に似たオオサカという道具に干した。オオサカは漁家の手造りだった。高さ1・5~1・7㍍、幅0・8-1㍍の大きさで、大枠も桟(さん)もスギ材を使った。スギ材には簾を干せるぐらいの幅でUの字の逆型の釘を打った。この高さでだいたい簾を6段干すことができた。幅は簾枚分をとった。オオサカはノリ産地の民俗資料館や漁業資料館に保管されているが、ダイズは保管の仕様が無く、どこにもない。雨が降りそうになったり、降り始めると漁家は総出で、オオサカを取り込んで物置にしまった。
機械化貧乏
1960年代半ばごろから重油を使った人工乾燥機が普及するとダイズもオオサカも不要となって消えてしまった。ノリを付ける作業も機械化され、手作業の部分は少なくなった。
ノリ摘み取りはノリが長さ10~20㌢ほど伸びると、1960年代まで手で摘み取った。1970年代に入ると、掃除機のバキュームのような電動具が使われてノリを吸い取った。1980年代くらいから、小舟が網の下に潜り込んで、バリカンのように刈り取る高速摘採舟が登場して、手間が省けるようになった。海苔干しは自動乾燥機が使われた。手作業の部分は乾燥して出来上がった海苔を簾からはがす作業だけ。
漁網、ノリ網資材も大きく変わった。何もかも機械による自動化が進み、便利にはなった。しかし、この機械化は導入にかなりの費用がかかり漁家経済に重い負担になった。地先漁業権が消滅する埋立に伴う漁業補償金でカネが入ったと思ったら、この機械化ですぐにカネが出て行った。確かに作業は楽になったし、生産性は上がった。年老いてからも漁業ができるようになった。しかし、この代償はあまりに大きいと思った。農家の機械化貧乏と同じ道ではないかっと思った。
仲買は信州人
海苔の仲買商は信州人が多い。しかも寒天の産地の諏訪、茅野地域の人たちが多い。大森にはまだ海苔商人がいる。ほとんど信州人だ。房総に信州人が多いのは、寒天の材料テングサが取れるからだと思った.ちなみに銭湯の経営者は越後(にいがた)出身者が多い。大森地域で信州人の海苔仲買商が多い理由がいまだに分からない。
焼き海苔
海苔は軽く火にあぶった方が断然うまい。葉が柔らかく、口当たりが良いし、少し青みがかった方が香りが良い。焼きのり、味付け海苔は1960年代半ばごろから出回り出した。
海苔にも等級があって、品質によってクラス分けされている。新海苔の黒光りした艶の良い海苔は「上」。「上」にもランクがあって1から5クラスまである。コンビニのおにぎりや回転ずしの鉄火、キュウリ巻にはあぶりが入ってなく、海苔そのもの。食べられないわけではないが、歯切れが悪くうまいとは思わない。海苔をあぶる際もコツがあって、表面でなく、手触りがざらざらした裏面を軽くあぶることだ。
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