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なぜ音声配信が怖いのか本気出して掘り下げてみた
先日こんなnoteを書いた。
音声配信の添削を受けてから動けなくなったことを言語化した記事だ。
紙のノート5枚分に書きなぐって、noteにまとめてスッキリした気になっていたけど、未だに動けない。
なんでや。
わたしにもわからないことが多いので1つずつ掘り下げてみよう。
家族やわたしの内面に深く突っ込んだ内容になるので、あまり楽しい話にはならないと思うけど。
これをやらないとわたしはきっと動けないままで今年を終わってしまう気がしている。
もし最後までお付き合いくださる奇特な方がいたら心からのキッス♥を贈ります(笑)
わたしと同じように音声配信や、不特定多数に向けて話すこと、文字以外の自己表現や言語化に大きな負担を感じる人の、なにかヒントになればいいなぁ。
そんなことをうっすら考えながらつらつら書いていくぅ。
【言葉で伝える】が苦手になった原体験
メモ、手紙、ノート、自由帳、作文用紙。
わたしの意思表示の手段は常に文字であり、紙に書いた文章だった。
分厚い物語の本を読むことに特化した成れの果て、と片付けるにはいささか無理がある。
源流はなんだろう?
母だ。
母はわたしの独裁者だった。
今でこそ良好な距離感を保てるようになってきたけど、小学生のわたしにとって母はそういう人だ。
わたしが
「モスピンクの服が着たい」
と言えば
「センス悪い。もっと派手な色にしなさい」
と即座に否定される。
わたしが
「〇〇を見てこう思った」
と言えば
「読みが浅い」
と切り捨てられる。
すべてにおいて暴君ではなかったし、虐待されたわけでもないが、母にはそういう一面があった。
寄り添われるより否定された記憶が強く残っているだけで、母は母なりにわたしに寄り添い続けていたのかも知れない。
ただ、わたしにとっては「否定され続けた」という印象が強く残るエピソードが多いと感じてきた。
わたしは母に認めてもらいたかった。
わたしの言葉で笑ってほしかった。
でも、どうしたらいいかわからなかった。
【話すこと】から【活字】へ逃げ道を見つける
反射神経が鈍かったのか、地頭が悪いのか、人との会話のなかで自分の考えをまとめていくのが苦手だったとは思う。
このあたりは4歳で東京を離れ、母の実家がある試される大地へ移住したことも大きい。
標準語+千葉なまり+東京下町の発音で育った幼少期。
この環境からいきなり切り離されて北の大地へ。
東北ほどではないが、言葉に独特の訛りや表現方法があって、聞き慣れない単語も多かった。
4歳のわたしは外国へいきなり連れていかれたようなカルチャーショックを受ける。
地元の幼稚園では「気取ってる」と言われた。
方言を聞き取れなかったり、意味が分からないと「よそ者」と笑われた。
自分が使う言葉が相手に正確に届かない恐怖は未だに思い出す。
消しゴムで消せたらいいのに、脳裏に今もこびりついている。
声を出して相手に自分の要求や希望や感情を伝える難しさは、大きな壁だった。
次第にわたしは活字にのめり込んでいく。
幼稚園の年長のときには、絵本ではなくルビ付きの児童文庫を読んでいた。
活字とわたしの一対一の世界には、イントネーションも方言も理解できないわたしを笑う人も入り込めない。
難しい漢字や単語や表現は国語辞典と漢和辞典が教えてくれた。
気持ちを伝えられずに泣き出す子
わたしの言葉を否定する母と、活字の世界に挟まれたままわたしは小学生になった。
友達がいなかったわけではないけど、コミュニケーションの取り方は独特だった。
活字はわたしと双方向の会話をしないし、母もわたしの言葉を遮って終わる。
でも無口だったわけではない。
なんなら【口から産まれた】と家族にからかわれるほどよくしゃべる子どもだった。
脳みそを通さないで見たもの全部口から垂れ流している、とは叔母の談。
ガムテープを貼ったくらいじゃあんたのおしゃべりは封印できないわね、と笑われた。
わたしが苦手なのは自分の感情や希望を言語化して、音声として。
つまり会話として他人に伝えることだ。
幼稚園のときからわたしはよく泣く子どもだった。
母に訊くと東京から移住するまではそうでもなかったというから、言語形成に失敗した結果なのかも知れない。
今振り返るとこんな場面で、言葉より先に涙が溢れてきた。
ひどいときは授業中ずっと泣いていたこともあったし、泣いているうちに移動教室でだれもいなくなっていたこともあった。
気持ちを伝える
希望を伝える
要望を伝える
反論する
意見を否定された
今でも苦手だなぁ……
泣かなくなってきたけど。
声に出して伝えたい言葉があふれてくるのに、自分の言葉が無力だと積み上げた経験から諦めてしまう。
結果、脳みそのなかでぐちゃぐちゃになったまま飲み込みきれない気持ちが涙になって溢れてきて号泣。
大声で泣くことはできても主張はなにひとつできない無力感が、更に幼いわたしを泣かせた。
なんならここにいる誰よりもわたしは気持ちを伝えるための【語彙や言葉】を持っているのにそれを正確に伝える手段は【声じゃない】
声は無力だ。
そして書くしかない子どもができあがる
母にも手紙を書く。
友達にも手紙を書く。
気持ちはメモに書いて渡す。
自宅では小学校3年生くらいから大学ノートに物語を書いていた。
大好きなのは読書感想文。
話さなくても読んだ相手に自分の気持ちや意見が伝わるから。
本のなかの登場人物としか(一方的な)会話ができなかった子どもは、やがて文字や言葉の力に傾倒する。
中学校の国語教師が家庭学習用のノートに書き溜めていた詩を見て、コンクールに応募することを勧めてくれた。
結果入賞。5000円分の図書券をもらった。
ローカル新聞にも掲載されたはずだ。
そしてさらに言葉の世界にのめり込んでいく。
流行りの音楽はメロディより歌詞が大切だった。
好きな歌詞はすべてノートに書き写して、使われている単語や言い回しを真似して詩を書いた。
自分の言葉より他人の言葉に自分の感情を委ねた。
自分の言葉や声に価値なんてないと思っていた。
そりゃしゃべるの苦手になるよね
わたしは物心ついたくらいからオタクだが、オタク界隈ではずっと文通が主流だった。
お金のやりとりは振込じゃなく【定額小為替】だ。
今では考えられない。
それがFAXや固定電話になり、Eメール(PC)になり、チャットルームやホームページへとコミュニティツールは変遷していく。
ミクシィやモバゲーはそのずっとあとのこと。
わたしが中学生のときにはパソコンが一般的になりつつあった。
学校には共用のパソコンがあり休み時間や放課後も開放されていた。
たしか我が家にIBMがきたのもこの頃だ。
わたしはチャットルームにハマった。
声を出さなくても、相手の声を聞かなくても会話が成立する。
会ったこともない人と!
ジャンルや年齢、所在地で分けられたチャットルームの好きなところへ入れば、自分と属性の近い人といきなり交流ができる。
SNSが当たり前の今ではなんらレア感もないだろうが、わたしの狭い世界が一気に広がった気がした。
だって手紙とFAXの次がチャットだよ。トぶぜ。
わたしは夢中になった。
自宅でも学校でもチャットばかりした。
わたしを誰も否定しない世界がそこにあったからだ。
声を発することなく、自分の考えを文字でまとめて発信できた。
なにも怖くない。
母も介入してこない世界。
そりゃまあ、リアルでしゃべる必要性がどんどんなくなるよね。
母がわたしの恐怖の原体験の大半だと気づきたくなかった
高校生のときに父が亡くなった。
母は目に見えて発狂した。
仲の良すぎる夫婦だった。
むしろ母が父に依存していたのかも知れない。
悲しみを通り過ぎて病んでしまった。
わたしと弟を現実に置き去りにして。
母と会話がなくなった。
わたしの言葉はなおも母に通じなくなった。
なにか言えば返事はいつも決まっていた。
「連れ合いをなくした妻の気持ちがあんたにわかるの」
わかるかい。
わかってたまるかい。
こちとら高校生じゃボケ。
じゃああなたは父を亡くした思春期の娘の気持ちが正確にわかるんですか。わかるならもう神の領域ですよ。
今なら言えるかも知れない。
いや、言えないかな。
無理だろうな。
わたしが母に届く言葉なんてない。
最初から持ってないし、母はわたしの言葉で心を動かさない。
実際はどうだったかわからない。
家族みんながバラバラで必死で、悲しくて辛かっただけだ。
母は母なりにわたしを大切に思っているし、わたしもわたしなりに母が大切だ。
関わり方のせいで歪んだ執着になった自覚はあるれど。
ある日、わたしは母にはじめて手紙じゃなく、声でぶつけた。
もう、手紙なんかじゃ、母には届かないと気づいたから。
「お母さんはひとりで悲しんで地獄のどん底にいるみたいな顔してるけど、わたしも弟も生きてあなたのそばにいる。なのになんで必要としてくれないの!? 同じ家に暮らしているのにわたしと弟はあなたに顧みられない。あなたは自分の悲しみの殻の中から出てこない。わたしと弟をこんな形で棄てるくらいならきちんと棄ててくれたほうがいっそあきらめがつく」
母はなにも言わなかった。
なにも言わずに泣き出した。
わたしも多分、ずっと泣いていた。
言って良かったと思った。
だけどそれと同じくらい、言わなきゃよかったと思った。
わたしの声は、言葉は、いいことに使えない。
誰かを喜ばせるために使えない。
否定されるし笑われるし傷つける凶器のようにしか使えない。
声がこわい。
話すのがこわい。
声で感情を伝えるのがこわい。
多分あれが決定打で、わたしの最大の傷だ。
おとなになっても話すのが怖い
メールで完結したらいいのに。
手紙で完結したらいいのに。
仕事も友人関係もずっとそう思っていた。
そうかと思えば人恋しくて電話でまくしたてる。
ウィルコムが全盛期だった。
でも双方向の会話はずっとできていなかったのだろう。
その証拠に20代で知り合った知人友人は今、誰もいない。
コミュ障とまとめたらそれまで。
だけど、わたしはコミュニティ障害じゃなくて会話恐怖症? 本音恐怖症?適切な言葉がない。
質問するとか、相談するとか、そういう能力が著しく欠けているのも同じような理由だろう。
自分の内面を顧みないで上っ面の言葉と文字と声だけで生きてきたから。
わたしが声優の声フェチなのは、自分と真反対の能力が眩しいからかも知れない。
音に敏感で声で好き嫌いを分ける。
自己防衛本能か?
幼稚なまま身体だけおとなになってしまった。
アダルトチルドレンの自覚はあったけど、ひとつずつ拓いてみると納得してしまう。
あー、そりゃね。
だけどわたしはわたしを諦めたくない。
声に出すのは怖い。
言語化が文字だけで完結するならギリ耐えられるようになった。
でも声で言語化は……
逃げたくないよ。
でもできるって言い切れない自分がいる。
そもそもこのわたしの根深いやつ、どっから手をつけたらええねん。
音声配信の添削に耐えきれなかったのは、母がわたしの話すことを否定してきた過去のフラッシュバックなのかも知れない。
認めたくないけど、多分。
添削=否定にわたしのなかで変換されてしまう。
信頼している好きな人にされるからなおさら、その期待に応えられなかったという絶望感と無力感がわたしを襲う。
初心者に期待もクソもないと思うの。
わたしがそう思い込んでいるだけ。
棄てられたくないってまだどっかで思っているから。
母とは数年前にもひと悶着あった。
そのときのわたしはLINEでひたすら感情を吐き出すように送り続ける攻撃をした。
あれは攻撃だった。
声にはならなかった。
母に声で伝えてまた否定されたら、今度こそ棄てられるんだと思った。
もう三十路すぎにもなって母に認められるも棄てられるもないと思うんだけど、母への病的な執着は幼少期から成人するくらいまでの【愛されたさ】の反動だろう。
気づけた今はだいぶ本音の会話が声でできるようになった。
上っ面じゃないやつ。
厄介だなぁ。
めんどくせえなぁ。
自分で思う。
でも変わりたいと無意識が願って、わたしは今【とぽ塾】にいる。
声で、伝えられる人、あなたマジですごいよ。
誇っていい。
わたしは、いつできるんだろう。
オチのない記事書いてしもた(笑)
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