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インド楽器は要らない子?"カリル・バラクリシュナ&バダル・ロイ"マイルス・デイヴィス名人列伝Vol.5

Khalil Balakrishna

生誕 : 不明
楽器 : エレクトリック・シタール
加入期間 : 1972年9月〜1973年6月
参加作 : On The Corner, In Concert, The Complete Bitches Brew Sessions, The Complete On The Corner

Badal Roy

生誕 : 1939年10月16日 - 2022年1月18日
楽器 : タブラ
加入期間 : 1972年9月〜1973年6月
参加作 : On The Corner, In Concert, The Complete Bitches Brew Sessions, The Complete On The Corner

「誰やねん!」というのが大方の意見だろう。前回はビル・エヴァンスという超ビッグネームを取り上げた訳だが、今回の様な「誰やねん!」レベルの名人も取り上げるところが、この企画の醍醐味に他ならない。一番怖いのはPV数が落ちるのではないかという不安だが、まぁそこを気にしていたらやっていられない。だいいち、もっとマイナーな人物は沢山いるんだから。
カリル・バラクリシュナとバダル・ロイ、何故2人の人物を一度に取り上げるのか。それは両者が単独で取り上げるには些か小粒すぎるからというのもあるが、彼らは同じ時代にマイルスのバンドを去来し、同じ"テイスト"を齎した事が大きい。
カリル・バラクリシュナはエレクトリック・シタールを、バダル・ロイはタブラを担当している。両者の共通点は、そう、"インド"である。
マイルスの1972年作『On The Corner』を聴いている人はお分かりだろう。この楽器にはファンク、(これは意外と知られていないが)現代音楽とJ.S.バッハのテイスト、そしてインドの楽器が多分に用いられている。なぜマイルスはあのただでさえグチャグチャなサウンドの中に、インド音楽という混沌性を招き入れたのか?
その辺を見ていこうと思う。

How did you meet?

カリル、バダルとマイルスの出会いに入る前に、ポピュラー音楽におけるインド楽器の立ち位置を改めて振り返っておこう。

インド音楽とジャズの結びつきを振り返った上で、まず第一に連想されるのがジョン・コルトレーンの存在だろう。彼は1961年に"India"という曲を吹きこんでいる。ジャズ界屈指の神秘家としても知られるコルトレーンは東洋思想にとりわけ関心を示していた。薬物依存、不倫など、これまで迷いの多い生活を送ってきたコルトレーンにとっては、禁欲的で求道的な東洋の精神世界は大変魅力的に映ったのであろう。
コルトレーンは1963年にシタール演奏で有名なラヴィ・シャンカールの知己を得て以来、彼を殆ど師同然に扱う様になる。彼のシャンカールへの入れ込みようは尋常ではなく、息子に"ラヴィ"と名付けているほどだ。その関係は1967年にコルトレーンが逝去するまで続いていた。因みにコルトレーンは、壮絶な晩年のパフォーマンスを記録したカセットをシャンカールに聴かせているが、「苦痛しか見てとれない」とハッキリ否定されている。コルトレーンとしてはシャンカールを音楽・人生の師として仰いでいただけに、否定された事は若干ショックであったろう。ともあれ、コルトレーンは1966年の来日時のインタビューでもシャンカールを尊敬する人物として挙げている。影響は生涯に及んだのは間違いない。
もう一つ、それと比べるとマイナーかもしれないが、殆ど同時期のミュージシャンとしてアマンシオ・ダシルバが居る。インド出身のギタリストである彼は1967年、息子の病気の治療の為、ロンドンに滞在していた際に業界人デニス・プレストンから見出される。1969年にはジャマイカ出身で、欧州で成功していたジョー・ハリオットと共に『Hum Dono』を発表している。彼にはチャーリー・クリスチャンやウェス・モンゴメリーといった正統派ジャズギタリストの影響が息づいていたが、そのエキゾチックなサウンドは当時としては新鮮に映った事であろう。
本作は最古の「フュージョン」作品の一つにも数えられる。「フュージョン」というと、今日の感覚からすれば「ロック、ファンク、ソウルとジャズの融合」を想起すると思われる。だが、原義からすればインドの音楽はもちろん、「世界中の民族音楽との融合」もその内に含まれるはずだ。そう捉えると、「フュージョン」の歴史は、ジャズ史のかなり初期まで遡れそうだが、ここでは深入りしない。

ロックの世界でもインド音楽の要素は効果的に用いられてきた。最古の例としてはヤードバーズの『Heart Full of Soul』や、キンクスの"See My Friends"などが挙げられる。ビートルズの"ノルウェーの森"においてはジョージ・ハリスンがシタールを導入した。この楽曲は彼が才能を発揮させ始めた記念碑的な楽曲とされる。1966年にはバーズが"霧の8マイル"を発表している。本楽曲や、ビートルズの影響で、シタールは瞬く間に知名度を高めていった。
これらはいずれも「60年代」という同じ時代を背景にしている点は興味深い。60年代末期はカウンター・カルチャーの時代だった。市民権運動の高まり、ベトナム反戦運動の影響を受けて、これまでの西側諸国の政治体制ーーのみならず「西洋」の歴史そのものを捉え直す動きが盛んであった。それは西洋中心主義の中でベールに覆われていた「東洋」の価値を見直す流れにも繋がった。ポピュラー音楽におけるインド楽器の導入は、こうしたカウンター・カルチャーの思想潮流とは無関係ではないだろう。
少々話のスケールが大きくなりすぎたので軌道修正する。この「思想潮流」とマイルスのインド楽器導入、2つの事案は果たして関係があったのだろうか?答えは、否であると思う。その理由については追々見ていこう。
カリル・バラクリシュナはこういう名前をしているが、生まれも育ちもアメリカ人である。本名はハーブ・ガードナー、ジョー・グリーン、カール・エドワード・バロウズなど様々。何故わざわざ名前を使い分けていたのか、そもそも生没年すら情報が見当たらない。謎の多い人物である。
対してバダル・ロイの方はバングラデシュ(当時はイギリス領インド)で生まれた。タブラという楽器は叔父の影響で触れたらしい。日本で言うところの"団塊世代"に当たる彼が幼少期に触れていた音楽はエルヴィス・プレスリーや、ナット・キング・コールなど当時メジャーなミュージシャンであった。ジャズに触れたのはそれより後で、1963年にデューク・エリントンの西パキスタン公演を観た事がきっかけだったという。1968年、彼は29歳の時にNYにやってくる。渡米当初の所持金は僅か8ドルで、インド料理店にて働きながら統計学の博士号を取得しようとしていた。NY・グリニッジ・ヴィレッジ、"A Taste of India"が彼のバイト先であった。
一方、バラクリシュナもバダルと同じ店に勤めていた様である。両者がマイルス人脈と結びついたのはこの店がきっかけであった。2人は週末になると店で演奏する機会を与えられていたのだが、1969年、たまたまそれを見かけていた"ベジタリアンのギタリスト"が居た。"ベジタリアンのギタリスト"は食事を摂るだけではなく、時折彼らに混じってジャムを演じたりしていた。そして、ある日彼が言った、"マイルスがちょうど隣のヴィレッジ・ヴァンガードで演奏しているから、君たちを紹介させてくれ。10分間でいいから、こっちに来て演奏してくれないか"。その"ベジタリアンのギタリスト"とは、ジョン・マクラフリンであった。イギリス出身のマクラフリンはロイと同様、前年に渡米を果たしたばかりであった。トニー・ウィリアムやマイルスや見込まれていたとはいえ、無名さで言えば両者は大差がなかった。

このプレイを聴け!

そうした経緯があって、バラクリシュナは11月19日のスタジオ・セッションで初めて抜擢されている。一連のセッションでは"Great Expectations"、"Orange Lady"、"Yaphet"、"Corrado"が、続く28日に"Trevere"、" The Big Green Serpent"、"The Little Blue Frog"が吹き込まれている。これらはいずれも録音後直ぐに発表されず、1974年に一部が『Big Fun』に収録され、1998年に『The Complete Bitches Brew Sessions』にて全てが日の目を見ている。楽曲には、当時のマイルスのスタジオ・セッションにありがちな、「発着地点を定めない、発表を前提としないセッション」的なムードが良くも悪くも立ち込めている。もっとも、同じ方法論で作られたとしても、『In a Silnet Way』や『A Tribute to Jack Johnson』の様に、テオ・マセロの編集次第では傑作になり得る可能性は秘められていただろう。だが、この場合は元となったセッションの出来栄え自体が思わしくなかった為に、結果的に冗長で催眠的な印象を受けてしまう。総じて試作の域を出ない完成度ではある。ただし、マイルス流のアンビエントと捉えるのであれば結構興味深い。なんてたってブライアン・イーノより10年近く先駆けているのだから。
この日のセッションではバラクリシュナのシタールに加えて、タブラも楽器に加えられているが、この時点でロイは参加していない。代わりにビハリ・シャルマというこれまた謎多き人物が選ばれている。恐らくだが、バラクリシュナやロイと同じ、「インド料理店」繋がりの人選ではないか。

ロイがマイルスに起用されたのは、1972年6月から始まった『On The Corner』においてであった。当初、このセッションでは、シタールにバラクリシュナではなく、「オレゴン」で有名なコリン・ウォルコットが起用されていた。エスノ・ジャズの分野では有名なバンドであるオレゴンとマイルスは、この当時いくつかのコンサートでステージを共有する機会があった。ウォルコットは恐らくその際にマイルスの目に留まったのであろう。
本作は「ジェームス・ブラウン、スライ・ストーンとマイルスのサウンドの融合」といった形容が為される事もあるが、ウォルコット、ロイら、インド楽器隊の起用は明らかにJBやスライのサウンドとは異なる物である。ここで注目すべきはマイルスはいつの時代であっても、「〜のような」「〜的な」サウンドは求めていたとしても、「〜そのもの」なサウンドは求めていなかったという違いがある。その証拠にジミヘンやスライへ、マイルスはあれだけ賛辞を表明していたとしても、ーージミヘンが短命であったからにしてもーー共演だけは決してする事はなかった。求めていたのは飽くまで「表面的な」、「ジミヘン的な」、「スライ的な」、「JB的な」サウンドを求めていただけであると僕は考える。それ故に、いくら影響を表明していたとして、本作は「JBそのもの」、「スライそのもの」では全く無い。
そこで前項冒頭の話に繋がってくる。『On The Corner』におけるインド楽器の使い方も、「表面的」である。ここでマイルスはマクラフリンやコルトレーンの様に、「東洋の神秘」の様なテーゼに入れ込む事なく、明らかに全体のサウンドにカラーを添える物として使っている。その点はデューク・エリントンを彷彿とさせる。彼は大戦以前から自身の音楽に木魚を用いていたし、『極東組曲』の様な、表面上のサウンドのみを取り入れているのである。
一方で何故エスニックなサウンドを加えようと思ったのか。マイルスはインタビューの中で、"東洋の音楽の全てに興味がある。インドの音楽、ムーアの音楽、アフリカのサウンド...インドの音楽っていうけどね、インドのサウンドっていうのはモンゴルとか、スペインとか、ムーアとか、やっぱりいろんな国の音楽のコンビネーションなんだ。アルジェリアの音楽もそうだし、日本の音楽だって元をたどればそんな風にして成立してきたんだと思う"と語っている。また、別の箇所では"日本やドイツにブルースがあるかどうかは知らないけど、スペイン人だったら、フラメンコは彼らにとってのブルースだね。アルジェリア人にもブルースはある。ユダヤ人の歌手にだってブルースはあるさ。世界中のどの民族だって、それぞれにブルースはあるはずさ。それぞれ別の呼び方をしてるだろうけどね"とも語っている。マイルスのスパニッシュ好きは有名な話であるが、彼がスパニッシュ好きである理由は恐らくここにある。"世界中の民俗音楽ってのは、結局同じなんだよ。共通してるんだよ"。マイルスにとってルーツ・ミュージックは全て底を同じにしており、世界中の民族音楽は「ブルース」に集約され得る物だった。
『On The Corner』はある意味原始性を絵に描いたような作品であるが、本作にあるアフリカ、インド、様々なテイストの混在は彼のルーツ・ミュージック観を現していると言えよう。ルーツ、ブルースの名の下に全ての音楽は共生可能なのである。
しかし、マイルスの中で斯様な音楽観があったとしても、バンドメンバーにそれが伝わるとは限らなかった。バダル・ロイは本作のリリース当時、レコードを一度しか聴いていなかった。彼がようやく評価を改めるのは2000年代に入っての事である。大学から帰った息子が"父さん、『On The Corner』で凄い演奏をしていたんだね!"と言ってくれるのを待たなければならなかった。
マイルスは1972年9月に長らく滞っていたツアー・バンドを再始動させる。サックスにカルロス・ガーネット、キーボードにセドリック・ローソン、ギターにレジー・ルーカス、ドラムにアル・フォスター、ベースにマイケル・ヘンダーソン、パーカッションにエムトゥーメ、そしてシタールにはカリル・バラクリシュナとタブラにバダル・ロイという編成である。この編成はインド楽器隊の続投からも分かる通り、明らかに『On The Corner』の再現版であった。同時期のライブは『In Concert』がオフィシャルリリースされている。

この期に及んで『On The Corner』の再現を試みている事から、マイルスは本作の成果を一定数感じていたと思われる。しかし、バンドメンバーたち、特にインド楽器隊はリーダーの企図を理解できずに前後不覚に陥ってしまっている様に聴こえる。ロイはひたすらタブラをチャカポコ叩いているし、バラクリシュナはシタールをひたすらベンベケ刻んでいる「だけ」である。確かにこの時代、最早マイルスは「インタープレイ」が可能な技量は求めていなかったはずだ。それを考慮すれば、このバンドが極度にワンパターン集団であったのはマイルスの狙い通りだったと言える。ただ、それよりも問題だったのは、このバンドにソリストが不在だった点である。本来ソリストであるところの、レジー・ルーカスやカルロス・ガーネットにはソロを取る技術が欠如していた。
また、9人編成という大所帯ならではの如何ともし難い問題もあった。9人ともなると、ミキシングがとても困難で、必ず1人は音が埋もれてしまう。その際一番被害に遭うのがインド楽器隊である。確かに、『In Concert』においてもその問題が生じている。
ソリスト不足問題については1973年に突入し、デイヴ・リーブマン、ピート・コージーを獲得した事で解消される。それに伴い、同年5月には前代未聞のテンテット(十重奏)までバンドは拡張された。セットリストもこの頃になると"Turnaroundphrase"など新しい曲に変更され、"アガパン"時代へのお膳立てが殆んど完了した。
"On The Corner"バンドが脱皮して、"アガパン"バンドに変わる。これは同時に「インド楽器隊の不要化」を意味していた。バラクリシュナ、ロイは同年6月にバンドを解雇される。両者のマイルスへの貢献度は決して高い物ではなかったかもしれないが、「ファンクにインド」というテクスチャーは間違いなく唯一無二の物だった。バダル・ロイは"心から演奏し、聴くこと"をマイルスから学んだという。

この作品を聴け!

バラクリシュナのディスコグラフィーには謎が多い。少なくとも確かなのは、活動期間は68年から74年に集中しており、リーダー作の類は発表していないという事である。

彼の名前が見える最も古い作品はパット・マルティーノ(elg)の68年作『Baiyina (The Clear Evidence) 』である。本作で彼はシタールを弾いている...訳ではなく、タブラ演奏に専念している様だ。本作の音楽性は時代性が醸造する怪しさ芬々である。鳴り止まないタブラとシタールが織りなす怪しげなムードは一歩間違えるとB級スレスレであるが、マルティーノらの「知性」によって何とか食い止められている。むしろ、マルティーノの怖いくらいに冷静な演奏がユニークなコントラストを描いており、トリップ効果は抜群だ。

もう一つ、バラクリシュナについて分かっている事としては、マーク・レヴィンなるコルネット、フリューゲルホルン奏者のグループに加わっていたという事だ。このバンドの73年作『Songs Dances and Prayers』は発売当時決して反響は呼ばなかっただろうが、近年に入ってリイシューされている。本作の参加者にはビリー・ハート(ds)くらいしか有名人は居ない。
その音楽性はインドのテイストと、フリー・ジャズのテイスト、そして60年代末期のサイケデリック・ロックの要素が色濃く表れているだろう。ちょっと力が抜け過ぎている様に思うが、同時代のアングラな雰囲気が好きな人であれば難なくイけてしまうと思われる。

対してバダル・ロイの方はかなり多作である。
78年作『Kundalini』。フリー系のクラリネット奏者ペリー・ロビンソンとブラジルのパーカッショニスト、ナナ・ヴァスコンセロスとのトリオ演奏。
ロイの音楽はジャンルと国境の壁を越える。本作に至ってはジャズとブラジルとインドの融合である。それが不思議と調和しているのだから面白い。

彼は1975年、マイルスバンドを抜けて間もないデイヴ・リーブマンが結成したバンド"ルックアウト・ファーム"の下に合流している。このバンドの音楽性には、リーブマンが在籍した73-74年当時のマイルスバンドの音楽性の影響が露骨に表れていた。
同じく75年のリーダー作『Ashirbad』。時期的にも近いという事もあり、共演者はフランク・トゥサ(bs)、リッチー・バイラーク(pf)、リーブマンなどルックアウト・ファームの面々と共通している。恥ずかしながら、僕はワールド・ミュージックを評価できる耳を持ち合わせていない訳だが、今までの作品とは違って本作のロイのタブラは「添え物」ではない。ジャズメンと共に自由に活き活きと創造しているのが分かる。
ロイの演奏はピアノ、フルートの演奏に反応して、ごく自然に調和し合っている。これまで本稿では彼らの演奏を「カラーを添える役割」として見てきたが、少人数編成の本作ではその実力が分かるだろう。相手がどんなに違う音楽を演っていたとしても対応できるロイの柔軟さ、そこには「カラーを添える役割」以上の物があると思われる。それこそが多くのジャズメンから起用された理由に他ならないだろう。

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