見出し画像

黒いアルトのコルトレーン"ソニー・フォーチュン"マイルス・デイヴィス名人列伝Vol.3

Sonny Fortune

生誕 : 1939年5月19日-2018年10月25日
楽器 : ソプラノ、アルト、テナー、バリトン・サクソフォーン、クラリネット、フルート
加入期間 : 1974年8月〜1975年3月
参加作 : Get Up with It, Agharta, Pangaea ,The Complete On The Corner Sessions

マイルスのバンドにはコルトレーン系のサックス奏者が多数出入りした。無論、何をもってして"コルトレーン系"とするかに依るだろう。目下"シーツ・オブ・サウンドやコルトレーンに特有のクリシェを多用していた奏者"と定義するのであれば、その走りは1970年のスティーヴ・グロスマン(ts,ss)にあったのは間違いない。その後も1973年にはデイヴ・リーブマン(ts,ss,fl)、復帰後はビル・エヴァンス(ts,ss,fl,el-p)、ボブ・バーグ(ts,ss,fl,syn)とコルトレーン系の抜擢が相次いでいる。彼らに共通していたのは、全員が白人であった事である。本題から少し話が逸れるが、マイルスの75年〜81年の長期引退期間中、入れ替わる様に登場したのはマイケル・ブレッカー(ts,ss,win-syn)である。彼らはコルトレーン縁のシーツ・オブ・サウンドを更に究め、パフォーマンス性に特化した「バカテク・トレーン」とも言うべき奏者たちだった。グロスマン、リーブマン、ブレッカーらは70年代初頭にNYのロフトで切磋琢磨した仲である為、サウンド面の類似は不思議な話ではない。
今回取り上げるソニー・フォーチュン(Sonny Fortune)は同じくコルトレーン系のサックス奏者の1人として数えられる...が、彼の場合、肌の色は黒いし、何よりメインで担当する楽器はアルト・サクソフォーンである。今日、テナー・サクソフォーンという楽器でジャズを演奏する以上、コルトレーンからの影響は不可避であるが、アルトのサウンドでチャーリー・パーカーよりも、コルトレーンからの影響が色濃いフォーチュンは貴重なのかもしれない。
とはいえ、他の"コルトレーン系"がそうである様に、フォーチュンにはフォーチュンとしか言いようがない個性がある。アルトという楽器の特徴も大きいが、彼のソロは白人系のサウンドのそれと比べると、とても暖かく、朴訥としている様に感じる。そして何よりフォーチュン特有の手癖フレーズが目立つ。
故・中山康樹氏がジョージ・コールマンを指して"呑気なお父さん"と評していたが、フォーチュンの場合もそれがしっくりくる。そもそも見た目からして「昭和の気の良いオッちゃん」ではないか!フォーチュンにはサックスよりも酒瓶や腹巻きの方が似合うと思うのは僕だけだろうか。

How did you meet?

ソニー・フォーチュンは1939年に生まれた。前の前の年にはロン・カーターが、翌年にはハービー・ハンコックとゲイリー・バーツが生まれている。マイルスとの年齢差は13歳差、バンドに加入した際の年齢は35歳である。
なぜ長々と年齢についての口上を垂れたのかというと、フォーチュンが在籍した75年のAgharta/Pangaeaバンド時代の特徴を知ってもらいたかったからである。Agharta/Pangaeaバンドの平均年齢はとても若かった。まず、ベースのマイケル・ヘンダーソンは1951年生まれで、マイルスとの年齢差は25歳差。サイドギターのレジー・ルーカスは1953年生まれ。この2人は何とティーン(19歳!)での加入である!ギターのピート・コージーとドラムのアル・フォスターは同い年の1943年生まれ。それでもマイルスとは17も年齢が離れている。パーカッションのエムトゥーメは1946年生まれの25歳での加入。以上を踏まえるとAgharta/Pangaeaバンドの平均年齢は28歳という事になる!
つまり長々と何を言いたかったのかというと、フォーチュンは事実加入当時"オッちゃん"だったのである。
と、まぁそれは冗談として、彼は75年当時、既に経験豊かなプレイヤーであり、正統派なジャズサックス奏者であった。それは諸々の音楽界の異端児らが結集していたAgharta/Pangaeaバンドにあって、少々場違いな節すらあった。

上の画像は1975年当時の写真。全員がサイケな格好に身を包んでいるのに対して、フォーチュン(左から2番目)は少々居づらそうに、ちょっとカジュアル目な格好でキメている。ピート・コージーに至っては怪しげな宗教のグルである。

とはいえ、昔からフォーチュンはジャズ界以外での活躍が皆無だった訳ではない。むしろ彼のルーツにはソウル・ジャズや、R&Bのフィーリングが濃厚に息づいている。この点もコルトレーンとは違うところだ。
彼の名前がクレジットされている物の中で、最古の作品はオルガニスト、スタン・ハンターの66年作『Trip On The Strip』だ。本作ではマイルス時代には登場機会の無かったテナーも吹いており、とてもホンキーな演奏をしている。
その後翌年にはNYへ上京を果たす。エルヴィン・ジョーンズ(ds)のバンドに数ヶ月間加入し、68年から69年の間にはキューバン・ジャズの巨匠モンゴ・サンタマリア(conga)の下に合流している。マイルスバンドでの前任者、デイヴ・リーブマンも同じくエルヴィンのバンドに居た事実を知ると面白い。
マイルスはモンゴ・サンタマリア楽団時代にフォーチュンの存在を知った様だ。1968年に知ったのであれば、加入まで4年以上月日を費やした事になるが、マイルスの中でフォーチュンの名前が消える事はなかった様である。
1970年にはボーカリストのレオン・トーマス、1971年にはピアニストのマッコイ・タイナーのバンドに加わり、翌年に初めての来日を果たしている。同日のコンサートは公式で発表こそされてはいないが、当時ラジオ局が録音した高音質の音源がブートレグで出回っている。
こうして彼の音楽遍歴を振り返ってみると、いずれも黒人性を前面に出した奏者との共演が目立つ。先に「場違いな節もある」と述べたが、経歴的には十分Agharta/Pangaeaバンドにマッチしうる素質はあったと言える。
フォーチュンが初めてマイルスのバンドに加わって演奏したのは1974年7月26日の事。サックスのデイヴ・リーブマンが6月に自身のバンドを結成する為に脱退すると、マイルスは7月19日にヴィレッジ・ヴァンガードに出演していたフォーチュンをスカウトする(とっ捕まえる)。マイルスが告げた言葉は「凄く良かったよ」の一言。らしいといえばらしい。

記録に残る最古の演奏会場はボストンの「ジャズ・ワークショップ」であった(7月31日)。ロック系のミュージシャンも多数出演していた「ポールズ・モール」も併設されている同会場は、キャパシティこそ170人と狭かったが、西海岸の「キーストーン・コーナー」と並んで70年代のマイルスが好んだ会場の一つであった。
現存する音源の一つ(8月3日)はクラブならではの弛緩としたムードで、フォーチュンもかなりリラックスしている様に聴こえる。初めて演奏した感想については「別にどうって事なかったよ。ただ、初めての時ってのはバンドの音楽に慣れていないからね。少々戸惑ったりしたけど。」と語っている。この日のフォーチュンはソプラノに専念していた様だが、確かにバンドの流儀に慣れきっていない様にも聴こえる。ソプラノの音の軽さも相まって、まるでチャルメラを吹いているみたいだ。

このプレイを聴け!

元も子もない話であるが、ソニー・フォーチュンのアルトはAgharta/Pangaeaバンド時代のサックスとしては決して評価が高い方ではないと思われる。それは前任者のデイヴ・リーブマンのプレイと比較されるのも理由としてあるだろう。リーブマンは畳み掛ける様なコルトレーン・フレーズを吹きまくる、ダークなサウンドの持ち主であった。そのダークなサウンドがAgharta/Pangaeaバンドの「黒さ」と合致していた...というのがおおよその感想だろう。
しかしながら、先にも見た通り、フォーチュンの演奏は違った意味で「黒さ」を持ち合わせていた。それは肌の色としての黒さである。サウンドとしてはライトであっても、ソウル・ジャズ、R&B、キューバン・ジャズなど、黒人バンドでの経験が豊富な彼の演奏は、紛れもなく「黒」だった。
音楽的には高度で難解だったAgharta/Pangaeaバンドにあって、フォーチュンのポップなアルトは純ジャズ愛好家からは、オアシスの様に聴こえる事であろう。
それでもなお、彼の演奏は保守的だとか、ポップすぎるだとか批判もあるだろう。しかし当時マイルスは"若い黒人"からの名声を求めていた事実がある。Agharta/Pangaeaバンドはマイルスなりにスライ・ストーンやJBを咀嚼した成果なのである。結果生まれた音楽は難解極まりない物となったが、マイルスにとっての理想形はいつだってポップスにあった。これを踏まえるならフォーチュンの演奏はリーブマンの演奏以上に、マイルスの求めるポップ性を満たしていたと言えないだろうか。それを分かった上で聴いてみると、フォーチュンお馴染みの手癖フレーズですら愛おしく聴こえてこないだろうか。

触れるのが遅くなったが、フォーチュンはフルートも同時代に吹いている。演奏する機会は"Maiysha"、"Ife"など、それほど多くはなかったが、とても清涼感がある。特にファンク一直線の同時代としては、"Maiysha"は貴重なメロウ・ソング。ここで果たしていたフォーチュンの役割の大きさは見逃してはならない。
1975年2月の日本ツアーの後、2か月弱のツアーを経て、フォーチュンは脱退する。後任にはサム・モリソンが選ばれた。5月2日に行われたモリソンにとって初めてのギグではフォーチュンが客席で演奏を見届けていたらしく、脱退は円満な形で行われたと憶測できる。

この作品を聴け!

1974年作『Long Before Our Mothers Cried』。フォーチュンにとっては2枚目の作品であり、初の単独リーダー作でもある。ストラタ=イーストらしい、ブラック・スピリチュアル・ジャズである。これぐらいポップな音楽性には彼のアルトは良く馴染む。70年代にフォーチュンは『Awakening』、『Waves of Dreams』など、スピリチュアル・ジャズ色が強い作品を主に残している。

マッコイ・タイナーの1972年作『Sahara』。マイルスはマッコイのピアノ演奏を毛嫌いしていた割には、フォーチュンを始め、エイゾー・ローレンス(ts,ss)など何かとマッコイのバンドの出身者と縁がある。同様にグロスマン、リーブマン、フォーチュンなど、エルヴィン・ジョーンズのバンド出身者とも縁が深い。
エルヴィン、マッコイは言わずもがなコルトレーンの全盛期を支えた演奏者たちである。彼らは65年にコルトレーンと別れを告げているが、その後の両者の活動は常にコルトレーン・サウンドの影響下にあった。サックスは常にコルトレーン系のプレイヤーで固められていた事からもそれが分かる。
話が長くなったが、マッコイ時代のフォーチュン、恐らくこの時代が最も彼のサウンドにフィットしていると感じる。ピアノ、箏、フルート、パーカッションの音に合わせて吹く姿は先に紹介した作品とほぼ同じだが、本作の方が一歩も二歩も作品としては卓越している。延々と繰り返す祭囃子を彷彿とさせる原始のビートは、繰り返す度に心地よくなってくる。マッコイにとっては最高傑作の一枚であると思う。

エルヴィン・ジョーンズの1985年作『Jazz Machine Live at Pit Inn』。フォーチュンは67年にエルヴィンのバンドに在籍した...というのは先にも見た通りだが、その後も80年代、90年代に両者は邂逅している。しかも本作は我が国のジャズ・クラブ、ピット・インが舞台だというのだからテンションが上がる。
この曲も先と同様に「原始」路線である。エルヴィンのドラムも、ドラムというより"タイコ"と表現したくなる。フォーチュンのフルートは相変わらずとても透き通っている。

2000年のリーダー作『In the Spirit of John Coltrane』。"コルトレーンの魂"の表題そのままに、本作はフォーチュンのコルトレーンへのトリビュート精神が表れている。ドラムにはラシッド・アリ、ベースはレジー・ワークマンなどコルトレーン所縁の人物が選ばれている事からも気合いの入りようがよく分かる。
この楽曲でのフォーチュンはソプラノ・サクソフォーンで、とにかく音を敷き詰めている。スタイルはいつも以上にコルトレーンに近い。ピアノはジョン・ヒックスがマッコイ的なアプローチを繰り返している。こうして彼の音楽経歴を振り返ると、ある意味フォーチュンは「軸」があったと思わないでもない。参加している作品のサウンドには「スピリチュアル・ジャズ」や「黒人性」が常に付きものであった。彼のアルトに滲み出る「黒さ」は天性のものであった。マイルスとの共演期間は短かったし、そもそも同時代のバンドにおけるサックスのポジションは「箸休め」に過ぎなかったかもしれない。しかし、フォーチュンのライトで、ブラックなサウンドは『Agharta』『Pangaea』両作を印象付けている決定的な要素の一つだと言えるだろう。

いいなと思ったら応援しよう!