幸せな人生を掴むよりもお金のために働く方を選ぶ人たちへ
2018/12/2
たぐちさんから質問いただきました。
Q:俺の友達に
「大人になりたくない」
って言ってる奴がいます。
もう二十歳過ぎて
成人の仲間入りしてますけど。
理由を聞いたら
「みんな
死んだような顔を
しているから」
「みんな
幸せそうじゃないから」
「みんな
疲れ果ててそうだから」
とかいろいろ
返ってきました。
それを聞いて
「確かにな」
って俺も
納得しちゃったんですけど
そもそもどうして大人は
あんなに疲れてるのですか?
電車乗った時なんか
どいつもこいつも
不幸面してて
なんだか自分まで
不幸になった気分になります。
大人になったらみんな
あんな感じになるんですか?
社会に出ると
幸せって逃げてくんですか?
俺はあんな大人には
なりたくないし
あまり疲れたくもないので
できたら
「疲れない大人になる方法」
とか
「幸せになる方法」
みたいなのがあったら
友達にも共有したいので
教えてください。
多くの人が疲れ果てているのは幸せよりもお金のために生きているから
A:どうして大人は
みんなあんなに疲れてるのか。
という質問が
なんだか人ごとに思えず
いささか
身につまされる思いを
してしまいました。
と言いますのも
僕自身も以前は
たぐちさんの仰る
「疲れ果てた大人」
の一人だったからです。
かといって今は
何をしても全く疲れない
サイボーグになったわけでは
ありませんけどね。
ですが
(元)疲れ果てた大人の一人
として意見を言わせて
いただけるのであれば
僕は世の大人たちがみな
一様に疲れ果てている理由を
「お金のためだけに生きているから」
なのではないかなと
と思っております。
他人と比べている限り一生幸せにはなれない
まず
どうして大人はあんなにも
疲れ果てているのか
というご質問に
端的にお答えすると
「仕事が忙しいから」
です。
さっきから
当たり前な回答ばかりで
すみません。
ですが
みんな生活のため
生きていくため
本当に毎日毎日
必死に働いているのです。
疲れの原因はなにも
仕事のタスクだけでは
ありません。
人間関係のトラブルや
健康問題など
常になにかしらの
悩みやストレスを抱えながら
生きているのです。
こうした背景が
あるからなのでしょう。
僕が
メールカウンセラーとして
働いていたころ
「疲れすぎて
なんのために生きてるのか
わからなくなってきました」
といったご相談が
後を絶ちませんでした。
しかし当たり前ですが
誰しもがただ無気力に
働いているわけではないし
ただ意味のない人生を
送りたいとも思っていません。
みんな
「幸せになりたい」
と心のどこかで
願いながら一生懸命働き
そして生きているのです。
また
ここからが大事なのですが
幸せになりたいと願う
多くの人は
「お金があれば幸せになれる」
と思っています。
確かにお金さえあれば
洋服をブランド物にしたり
腕時計をロレックスにしたり
車もベンツに乗り換えて
タワマンに引っ越すことも
できるでしょう。
そうやって身のまわりを
豪華に美しく着飾れば
社会的な地位の高さも
証明できますし
周囲から羨望の眼差しで
見られることで
優越感に浸ることも
できるかもしれません。
ベンツやタワマンとまでは
言わないまでも
多かれ少なかれみんな
「自信を持つため」
だったり
「自分をカッコよく見せたい」
「可愛く見せたい」
「ステータスが
あるように思われたい」
などといった気持ちで
自分を着飾ったり
しているのです。
でもここでちょっと
考えてみてください。
「幸せ」って
身のまわりを豪華にすること
なのでしょうか。
それとも
まわりと差をつけて
優越感に浸ることが
「幸せ」なのでしょうか。
「はいそうです」
と断言できる方も
いらっしゃるでしょうし
そのような方がいても
否定するつもりはありません。
ただ僕自身は
ちょっと違うと
思っています。
なぜなら「モノ」には
グレードがあるため
比較ができてしまうからです。
いくら
ステータス目的で
バーバリーのスーツを
着こなしていたとしても
会食で一緒になった人が
アルマーニのスーツを
ビシッとキメていれば
「自分のよりカッコいいな」
となりますし
念願のベンツのGクラスを
やっと買えたと喜んでいたら
知り合いがマイバッハを
買っていたとか
西新宿のタワマンを買ったと
つぶやいたらママ友から
「私は白金台の
タワマンを買いました」
とリプライがきたり。
いくら
「その他大勢よりも良いものを」
と思ったところで
もうお気づきの通り
上を見ればキリがないんです。
一生懸命働いて
精一杯貯めたお金をはたいて
優越感を味わったのも束の間
上には上があることを知って
劣等感に苦しめられる。
しかし
一度覚えてしまった優越感は
なかなか忘れることが
できません。
劣等感を押し殺すのも
難しいでしょう。
なのでまたさらに
グレードの高いものを
さらに高級なものを
終わりがない旅のように
追い求め続けるのです。
いかがでしょうか。
お金持ちの人達の世界で
たとえ話をしましたが
お金持ちではない側の人にも
結構当てはまる
内容なのではないかと
思っています。
ではなぜ
このような現実が
あるにもかかわらず
多くの人は
「お金があれば幸せになれる」
と信じて
疑わないのでしょうか。
僕はその原因の一部は
メディアにあるんじゃないか
と思っています。
貧困層と富裕層の生活ぶりをメディアが報道し続けた結果
少し本題とは
逸れてしまいますが
「疲れ果てた大人にならない方法」
の参考として
少しだけお付き合い下さい。
今テレビやSNSなどの
多くのメディアでは
貧困層か富裕層
両極端のどちらかに
スポットをあてて
そのライフスタイルを
報道しています。
たとえば
手取りが15万前後で
50歳派遣社員の
慎ましやかな生活ぶりと
かたや世田谷区や港区に
庭付きの豪邸をおっ建てて
車もキャデラックと
シボレーを乗り回して
家族共々幸せそうな
超お金持ちの暮らし。
貧困層の方たちを
とやかく言うつもりは
一切ありませんが
それでもこれら両極端の
生活スタイルを見た視聴者が
どちらに
好感を持つかというと
やはりお金持ちの方です。
努力の過程よりも結果のみをフォーカスして伝える時代
いつ何が起きるか
全く予想できない時代。
自分が
貧困層になってしまうのも
決して対岸の火事では
ありません。
誰だってこうなる危険性が
あるんですよという
恐怖心や不安を植え付けておいて
翌日には打って変わって
大富豪のライフスタイルが
発信されたりします。
お金があれば
アルマーニのスーツも
着ることができますよ。
お金があれば
外車だって2台持てますよ。
お金があれば
豪邸だって建てられますよ。
ですがメディアでは
お金持ちが
お金持ちになるまでしてきた
「努力」
というものを
一切報道しません。
アニメだってそうです。
主人公やその仲間たちの
血のにじむような
涙ぐましい努力はいつだって
コマ送りで飛ばされがちで
結局最後にフォーカスされて
印象に残るのは
「結果」だけ。
そのため
視聴者にはただただ
「成功者への憧れ」
だけが残るのです。
だからきっと多くの人は
こう思うのでしょう。
「お金さえあれば幸せになれる」
と。
こうして人々はまた
お金を求めて
身を粉にしながら
働き続ける毎日を
送るのです。
長くなりましたが
これが僕の考える
世の大人たちが
疲れ果てている理由です。
幸せの基準は自分でつくるもの
ここまで
読んで下さった方であれば
今回のテーマの答えは
もうすでに
おわかりかと思います。
お金に頼らずに
幸せに生きていくためには
幸せの基準を
「自分でつくればいい」
のです。
見栄をはって外車を買ったり
タワマンを買ったりしなくても
いいのです。
洋服も別に全身ブランドに
しなくてもいいじゃないですか。
外車やタワマンを買わないと
自分の価値が
落ちてしまうのですか?
ブランド物以外の
洋服を着たら
自信が
なくなってしまうのですか?
そうではないはずです。
みんな
他人の目や
自己顕示欲に左右されない
「幸せの定義」を
ひとりひとり
持っていていいのです。
たとえば
“寒い夜に
家に帰ってきてから
お気に入りの入浴剤で
全身ぽかぽかになれる
あのバスタイムが幸せ”
“独身貴族で
自分の好きなように
生きていけるのが幸せ”
“家に帰った後の
一杯のビールと焼き鳥を
ほおばるあの瞬間が
たまらなく幸せ”
“平日の昼下がりに
秋晴れの空の下で
コーヒー片手に
本を読むのが幸せ”
“家族で笑いながら
夕食を囲む
家族団らんみたいな
なにげないひとときが
最高に幸せ”
“真冬の週末に
ぬくぬくのお布団で
思う存分
二度寝を貪れる瞬間が
ものすごく幸せ”
などなど
日常生活の中にある
ささやかな幸せには
枚挙にいとまがありませんが
いずれも
見栄や大金なんて
一切必要ないことが
おわかりいただけるかと
思います。
先ほどあげた
富裕層のライフスタイルを
特集するメディアを見た時も
「豪邸を建てて外車に乗ることが
自分にとっての幸せなのかどうか」
をよく考えてみてほしいのです。
確かに豪邸や外車は
ステータスシンボルには
なりえますが
所有者の幸せとは
あまり関係がありません。
にもかかわらず
お金があれば
豪邸も外車も買えて
幸せになれるんだ!
と憧れを抱きながら
無理して働いて
身体を壊してしまっては
本末転倒です。
未来の幸せのために
今を犠牲にするのではなく
明日も楽しく生きるために
「今」幸せを感じましょう。
そうすればたぐちさんも
疲れ果てた大人には
ならないはずです。
おしまい。