太平洋戦争は自衛かというと

日本の太平洋戦争開戦の理由

日本の太平洋戦争開戦に至る経緯は、複数の要因が絡み合った複雑な過程である。主に、軍部の内部争い、特に予算を巡る競争が火種となり、加えて関東軍の独自行動が政府の統制を逸脱し、さらには国際的圧力が強まり、最終的には開戦に至った。本稿では、これらの要因について詳述し、太平洋戦争の開戦に至る日本の意思決定過程を推察する。

1. 軍部の予算争いと開戦論

日本の陸海軍は常に国の限られた予算を巡り、熾烈な競争を繰り広げていた。特に、関東軍は中国大陸における勢力拡大を重視し、海軍は太平洋におけるアメリカや欧州列強の脅威を主張した。これにより、軍は予算獲得を目指して軍拡を正当化し、結果として戦争準備が常態化していった。陸軍は日中戦争(1937年に勃発)の継続と拡大を推し進め、海軍はアメリカを想定した太平洋での軍備増強を唱えた。

しかし、開戦を主張しつつも、多くの軍部や政府の指導者は「いずれ誰かが開戦を止めるだろう」という暗黙の期待を持っていた。このため、開戦論が盛り上がる一方で、決定的なストッパーが欠如していた状況が続いた。特に、1930年代後半から1941年にかけて、政府と軍部の間で強力な指導力を発揮する者がおらず、開戦への道は放置されたままであった。

2. 関東軍の暴走と政府の統制崩壊

日本政府が軍部、とりわけ関東軍を統制する力を失ったことも、開戦に至る重大な要因である。1931年の満州事変は、関東軍が政府の許可なく独自に行動を起こした事件であり、これにより日本は国際連盟からの非難を受け、1933年には連盟から脱退するに至った。この事件は、関東軍が独立した行動をとるという前例を作り、日本政府が軍部全体を統制できないという現実を突きつけた。

その後も関東軍は中国大陸での侵略行動をエスカレートさせ、日中戦争の泥沼化を招いた。日本政府は、この状況を制御することができず、逆に軍部が政策決定を主導するような事態に陥った。この結果、政府と軍部の連携は弱まり、軍部の行動は独善的なものとなり、政府の外交的努力を阻害する形で進展した。

3. アメリカとの対立と経済的圧力

1940年、日本はドイツおよびイタリアと三国同盟を結び、アメリカとの関係はさらに悪化した。この同盟により、日本は枢軸国側に立つことを明確にし、アメリカやイギリスなどの連合国との対立が決定的なものとなった。その結果、アメリカは日本に対して段階的に経済制裁を強化し、1941年7月には日本の在米資産を凍結し、石油の禁輸措置を講じた。

石油を含む重要な資源を輸入に頼っていた日本にとって、この禁輸は非常に深刻な問題であった。資源確保のために日本は南方への進出を考え、特にオランダ領東インド(現在のインドネシア)の石油資源を狙った。しかし、この進出はアメリカとの直接的な軍事対立を意味していた。

日本の指導者たちは、このまま経済的圧迫に屈するか、あるいは戦争を選ぶかという究極の選択を迫られていた。しかし、戦争に踏み切るにしても、その結果がどうなるかについては悲観的である。誰もが積極的に戦争を望んでいたわけではなかった。

4. 開戦決定とそのジレンマ

1941年に至るまで、日本政府と軍部内では、開戦に関する意見が二分していた。和平交渉を続けようとする外務省の一部と、戦争によって国の存続を図ろうとする軍部の強硬派が対立していた。しかし、外務省の和平交渉はアメリカとの間で決裂し、特にハル・ノートの内容が要求が日本にとって受け入れがたい内容であったことは、米国が日本が宣戦布告するなんていう予測がなかったためだろう。日本に先制攻撃をさせるためというのは陰謀論だ。

1941年12月、日本は米国との戦争を避けられないと判断し、最終的に真珠湾攻撃という形で戦争が始まった。しかし、この戦争開始は決して誰かが望んでいたものではなく、全員が「誰かが戦争を止めるだろう」という楽観的な期待で出世レースを繰り広げた結果である。

つまり、日本の太平洋戦争開戦は、軍部の内部争い、特に予算獲得を巡る競争が大きな火種となり、それが政府の統制力の弱体化と結びついて最終的に制御不能な状態に至ったものである。また、関東軍の独自行動と日中戦争の泥沼化がさらに状況を悪化させ、国際的な孤立と経済制裁の強化によって、最終的に戦争回避の余地は消滅した。最終的に、開戦は「誰もが止めるだろう」と期待された中で、誰もその責任を引き受けることなく進行したのである。

太平洋戦争開戦の理由は、多くの要因が複雑に絡み合い、日本が避けるべき戦争へと向かうという悲劇的な決断を招いた。その根底には、軍部の暴走と政府の統制力の欠如が大きく関与していたのである。

実に日本的な理由で、無目的の戦争であった、というのが私の考え方である。

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