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キタダ、詩を読む。 …Vol.16 実存と射干の花



岡井隆さんがご存命だったころの中日新聞のスクラップから。


【短歌二首】

まずは岡井隆「けさのことば」から。

今朝の今朝詰め込みにける白飯がおもむろにわがわたくしを著る  小池純代『梅薗』

※白飯=しろいひ、著る=きる、梅薗=うめその。


「今朝を二度重ねて、ついさっき食べたばかりの『白飯』のごはんが、ゆっくりと私の生活を上衣のように着込んでしまったという。つまりあの白飯を力にして立っているという自覚であろう」(岡井氏)。

歌の本意はそうであっても、「白飯がわたくしを著る」と言挙げするのが詩。この言挙げで文字どおり「白飯がわたくしという人間を着込む」という図が描かれる。落語の「そば清」を思わせて、ちと怖い。
詩の言葉は、「比喩」としての層を持っている。また一方では「言葉どおりのimage」としての層をもつ。この重層性が、わたしたち読者の根源的な感覚を刺激するのではないか。


二首めは「中日歌壇」から。やはり岡井隆選。


足もとの薄闇に咲く射干のはな実存はいま静かに濡れて  (名古屋市)加藤敦子

※射干=しゃげ


「『足もとの薄闇』の中に咲く射干の花の群れと『実存』という哲学用語が美しく照合している。『静かに濡れて』という結句も見事なものだ」(岡井氏)。

さいきん別のところでも読んだが、詩語の範疇を狭めず、「言葉を危険に晒す」ということのひとつの例かと思う。
生硬なはずの哲学用語が、ここではしっとりといのちを吹き込まれてゐる。





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