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aniwatanabe
キタダ、詩を読む。…VOL.3 日蝕とゼリーとわたくし
数年前に書いた批評です。
皆既日蝕ゼリーふるへてゐたりけり 高柳克弘『寒林』
1980年生まれの作者である。
皆既日蝕のあいだ、姿を隠している太陽の実存はどこに在るか。
それはこの手もとのゼリーに在る。
いま、目の前でふるえているゼリーが、いまこの瞬間の、見えない太陽の実存である。
太陽の実存が、目の前のテーブルのうえのゼリーに在るのである。
ふしぎでも、非現実でもない。
太陽の実存する場所とわたくしの実存する場所、
どちらも同じ宇宙の、同一次元の一隅である。
それゆえ太陽もゼリーもわたくしも、
いつだって転位しうる同質の存在なのだ。
この一句から、わたくしはそのことを確認する。
中日新聞夕刊「大波小波」の筆者は、高柳の句を
「定型を端正に満たした俳句でありつつ、
今を生きる青年の普遍的な詩になっている」と評する。
不当に高柳の句を矮小化してしまっている評言ではあるが、
高柳の句が、定型を満たしつつ、定型を超えたものに届いているのはたしかである。
つまり俳句になっている。
話は変わるが……
となると、《定型を欠落させつつ定型を超え、定型を相対化してしまう表現も可能であるか?
また、そこまで考えるなら、なぜ定型に固執しなくてはならぬのか?》
という、近代以降なんども反復された詠み手の自問がまたしても湧く。
この問いは歴史的であり、またそのゆえにとこしへに現在的である。
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