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済州島雑記2
過去が遠ざかるにつれて、撮影した写真の意図も曖昧になってくる。
済州島の2泊3日の旅にしても、何を感じていたのか不確かになってきました。
もう一度、見直すことで自分の興味の源泉がわかるかもしれない。
当時、未消化だった出来事を反芻すれば少しは、実のある経験に進むかもしれません。済州島の歴史は、対馬の和多都美神社のたたづまいや、厳原町の「曲」地区で知った海女の歴史とつながります。特に、信仰の場として対馬には亀卜の歴史や、龍良山の天童信仰の話は、古代の祈りに触れる思いをしました。
済州島のお墓や、古い牧野の写真、海女さんの歴史に触れた時、対馬のみならず、日本とつながる人々の習慣や自然環境に、生活基盤の近さを感じました。
さて、今回は、祈りの場や対象について考えてみます。
ただし、今回の神社に関する記事内容は、完全に素人の思いつきであり、根拠の乏しい思いつきを、ネット利用によって肉付けしたものです。
予め誤解、不正確さが含まれること、ご了承ください。
1 済州大学校博物館
さて、同行された同僚(Miuさん)および韓国人の友人(Kimさん)のご尽力により、済州大学校博物館の訪問が叶いました。大学構内の博物館は3階建てで、1階に在日済州人センターがあり、日本との交流の深さを感じます。2階と3階に博物館があり、展示資料は大変参考になります。
屋上にも民俗的な壺や石臼などが陳列されていますが、遠く左手にハルラ山が見えていました。大学は全体が緑の中にありシラカシが多かった(表紙は大学に向かう道です。並木が立派でした)。表紙は大学の正門につながる道です。広大な敷地に嫉妬しつつ訪問しました。
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![](https://assets.st-note.com/img/1725504335-v03ESXFsOuLzgNT1rGmICaYn.png?width=1200)
大学博物館は、済州市中心部の民俗自然史博物館に比べると、規模は小さいのですが、民俗の歴史に関しては豊富な資料が展示されていました。また、職員の方々の対応も丁寧で、Miuさんの懇願により、市内にお住まいの民俗研究者も紹介していただきました。
展示されていた写真資料と解説文の一部を紹介しましょう。
2 聖地
日本では聖地をイメージすることがなかったこともあり、展示コーナーの「聖地」と、神社の起源が重なることに思いが至らずに帰国してしまいました。
今回の見直しで、神社以前の聖地を再認識したところです。
日本でも対馬の龍良山はかつて立ち入りが制限されていた聖地であり、天童信仰や亀卜の話も聞いていました。また、「浅藻の八町郭(あざものはっちょうかく)と呼ばれる石積みの塔」(美術手帖7、2013)も、写真で見てはいたのですが、
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解説文には、博物館の展示資料として「済州武神宮」を1992年に設置したとあり、写真前の石組みはレプリカです。ただし、背景の写真は現地のものと思われ、石の形にも意味がありそうで、神聖な場に供えられたように見えます。
強風や水不足を特徴とする火山島の済州島にあって、樹林は穏やかな場であり、長寿を思わせる大木には神聖さが漂うのではないか、と、想像されます。
以下、写真の右上部分の、ハングル語の自動翻訳です。
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自動翻訳では、「武」が「無」となることもあるので、ハングル文字の무(mu)が、漢字の「武」もしくは「無」に変換されてしまうことがわかりました。1992年3月〜の説明文中の「あなた(堂神)も不明です。
この「武神宮」に備えられていた石像です。
![](https://assets.st-note.com/img/1725436062-WZHXUeMsC7F504J1lxwETOfL.png)
特に仏教とは関連しないかもしれません。
この石像の解説文を自動翻訳してみました。
![](https://assets.st-note.com/img/1725346359-oMzg4pYtZW93Xfm8hDabxOrn.png?width=1200)
![](https://assets.st-note.com/img/1725781514-kt1C7A0ETuOdVUMQYa9NI3Dg.png?width=1200)
済州島の聖地、済州の神社 / 済州神堂は、日本語で表記されていたので、神社と神堂は同意語ですね。この他、文中には、自然村、長籍などやや不明な言葉がありますが、特に意味が取れない語句が次の5つです。(1)党五百節五百、(2)無属信仰、(3)「エレクト党」、(4)「ヨドレット党」です。
それぞれについて、検討してみます。
(1) 「党五百節五百」
「党と節」は、順序が逆になりますが、「党」は「堂」の誤訳であろうと、思います。では、「堂」とは?前回の雑記1の感想をお寄せいただいた友人(Haraさん)から、「タオ」について、有力情報が入りました。転記させていただきます。
(文末に引用文献が示されています)
『堂(タオ)と呼ばれる神社に相当する場所があり、そこにはエノキやケヤキの大木があることが多いようです。ただ朝鮮では、李朝時代に儒教が国教とされ、古くからの信仰は淫詞邪教として弾圧されたところから、目立たない場所にあることが多いとも書いてありました。古代、西日本は朝鮮と文化的につながっていたのだと思います』。岡谷公二.2009.原始の神社をもとめて 日本・琉球・済州島. 平凡社新書、岡谷公二.2013.神社の起源と古代朝鮮. 平凡社新書
Haraさんのご教示により堂は神社に相当する場所とみなせるし、「阿弥陀堂」、「薬師堂」など神社に準ずる建物に「堂」が付けられていることから、類推できました。さらに、「祠」は、より簡素な場所を感じがします。
文中「党五百節五百」を検索したところ、日本教科教育学会誌 2016.12 第39巻 第 3 号 pp.1-12がヒットしました。 金 奎 道さんの「韓国の伝統音楽教育としての地域固有の文化の指導」という原著論文の中に、「寺が五百、堂が五百」とありました。以下、引用します。
(2)巫者の音楽(巫楽)と儀礼(クッ)
1巫俗儀礼の概要 [済州の巫俗儀礼]
一万八千の神々が住み着き,「寺が五百,堂が五百」と言われる済州では宗教 的な儀式が盛んである。巫者による巫俗儀礼 「クッ(굿)」は,かつては,朝鮮時代では儒教に よって蔑視され,後に迷信として禁止された時期 もあった。
日本の八百万(やおよろず)には及びませんが、多くの神々を前提とした多くの施設が済州島にあるようです。「党」は「堂」の誤訳で解決しました。残念ながら、「節」に関しては「寺」を示すのか不明のままです。
朝鮮時代の儒教の影響が及ぶ以前は、どうだったのでしょうか?
李朝(朝鮮時代)が1392年成立するはるか以前、仏教の伝来が4世紀(372年、高句麗)、(384年百済)から6世紀(528年新羅)に及んでいたことから(「朝鮮半島史、姜在彦 著」より)、儒教以前に、約800年間に仏教と古代の信仰が共存して続いていたことになり、済州島各地の「堂」は、古代の聖地に由来すると見て良いのでは?と、思います。
(2) 無属信仰 (武俗、巫俗)
「無属信仰」をキーワードとして検索すると、namuwiki HPに「無属」が説明されており、古朝鮮の文化として、シャーマニズム(巫教)と同じ「武教」とされていました。(https://ja.namu.wiki/w/무속)
起源が古そうで、祈祷者はてんとうと呼ばれ、楽器を奏でながら踊る職業(女性)の写真が、表紙に載っていました。ただし、解説の日本語訳が、難解で、この信仰に関しては理解が進みません。
Haraさんからの私信にも、古くからの信仰について弾圧された経緯も示されており、上記引用にも巫者による儀礼も迷信とされ、ネット検索に頼る身としては、深掘りができませんでした。さらに私ごとですが、はるか昔、家で神棚を新調する際に、加波山神社から巫女さんが出張されてきたことを思い出しました。
(3) エレクト堂
おそらく、「産育」や「治病」を担当するとの解説からは、生命力のシンボルとして男性の一部が祀られているのではないか?と想像しました。検索では、無理な語句です。
(4) ヨドレット堂
蛇神との関連が示されておりますので、「蛇神信仰」を検索したところ、「韓国済州島における蛇神信仰考 ー環東シナ海文化領域における比較の視点からー という、論文がヒットしました。玄 珍瑚 著(「比較民俗研究」17、2003/3)の論文中には、「済州島の共同体地域社会の信仰は、男性を中心とする儒教式祭儀に対して、女性を中心とする巫俗儀礼に、雑多な形で崇める蛇信仰がある」とされていました。玄 珍瑚さんの論文には、自然環境に即した信仰の基盤となる指摘が含まれていました。引用します。
「済州島の土壌は火山灰土で、石がたくさんあり、風がつよく吹いて作物生育に苛酷な環境を持っている。粟作においても粟を畑に播くと発芽と生育のために風に吹き飛ばされないように牛馬を追い回して畑を運動場のように踏み固める。〜中略〜
済州人達は蛇の強靭さと不死性をどんな苛酷な自然環境のもとでも作物が生育、確実にみのりの時をむかえてほしいという願望に結びつけたと思う。」
済州島民俗自然史博物館のガイドブックにも、農具'Namte'の項に、夏穀物の種を播種した後に、風の影響を受けないようにするために土を固める道具として紹介されていました。木製の心棒に歯列のように、何本も木片を埋め込んだものを、回転させながら土の表面を移動させ、撒かれた種子を押し込むように使うようです。
狩猟採集から農耕が導入された歴史には、導入のしやすに応じた環境破壊がありますが、環境保全の側にたてば、済州島の自然環境の苛酷さは、人為の影響を近代まで退けてきたとも言えます。ただし、現在のゴルフ場への転換などは、劇的に自然環境の変容を進めています。同様に、温室栽培が活況を示している果樹栽培も近代に導入されたものと考えていましたが、「柑橘類の済州島での栽培は古く(三国時代)、朝鮮王朝時代には、済州島の住民からの年貢として有名だった」(済州島民俗自然史博物館ガイドブック)とのこと。これを物語るような写真がありました。
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みかんの島らしい伝統かな。
右から二つ目(日本のデコポンににてます)は、済州島原産種の一つ(Byung - gyul )
(民俗自然史博物館ガイドブック参考)
写真は民俗自然史博物館展示資料、
3 済州島の蛇
「済州島人にとって蛇は触らない神聖な動物であり、殺してはいけない禁忌させる存在」(玄 珍瑚 著「比較民俗研究」17、2003/3 )。この論文には、環東シナ海地域に共通する、水稲作農耕と漁労に基礎を置く「越文化」から、論じられており、「蛇に関する信仰は、龍神と関連して、世界の古代信仰遺跡で、確かに探すことのできる信仰形態の中で一つである」として、広範囲に信仰の対象になっていることが伺えます。
蛇の不気味さとは別に、「脱皮は生命の再生を意味する」そうですが、….。
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口が大きく開くのですね。ラミネートで保管してます。
さて、済州島民俗自然史博物館のガイドブックに紹介されている蛇は、次の4種類です。記載のまま、英名で示します。
1Black - head Snake / Sibinophis collaris,
2Korean Tiger Keelback Snake / Rhabdophis tigrinus. tigrinus,
3Red - tongue Viper Snake / Agkistrodon ussuriensis ,
4Cat Snake / Elaphe dione
3はマムシらしい、4の属名はアオダイショウ(E. climacophora)と同属です。
毒蛇は恐ろしい、自然災害も恐ろしい、畏怖の感情から、災害から逃れることを祈る習慣が自然発生し、世代を重ねた経験の蓄積が宗教化したと考えられます。
一方、米を食害するネズミの捕食者である蛇は、人間の味方でもあり、キツネ同様、感謝を込めて神格化したとも思えます。
民俗自然史博物館のガイドブックによれば、哺乳動物は、シカ(Roe Deer ),アナグマ ( Badger )、イタチ( Weasel )、コウモリ( Bat )、ノネズミ( Field Mouse )だけが紹介されており、キツネはいませんでした。
以上、考えつくまま、
今回も、最後までお読みいただき、ありがとうございました。