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花粉と歴史ロマン その21 青春の前の前頃

1 私以前

 父は長野県で生まれた。戦艦「三笠」の砲手として従軍していた祖父の退役後に、一家で東京に移住した。父は祖父のことを「釜たき」と揶揄していたので、ボイラーに関する職務もあったのかも知れない。東京では鉄鋼関係に勤めていた関係からか、木造の社宅に住んでおり、小さな庭でニワトリを飼っていたり、鉄釜の五右衛門風呂があり、のどかなな昭和の戦後であった。

 既に木曽の生家は無くなっていたが、親戚とは親密な関係が続いており、長野県大桑村や岐阜県中津川市を起点に木曽川沿いのふるさに何度も連れて行かれた。
 父は少年時代を過ごした木曽を愛していたと思う。東京で専門学校を卒業したあと近衛第三連隊の工兵として九十九里浜の防衛に従軍していた。終戦後、測量士の資格で区役所勤めをスタートさせた。

レンズを覗く仕事は、私にも伝わりました。

 一方、母は私の曾祖母(屋寿)と九十九里町で暮らしながら、教育を受けた後、地元の小学校で教員をしていた。母は潮風の届く海辺の町で、両親と離れて成長したが、江戸時代生まれの曽祖母の感化を受け、親戚縁者の支援の中で生活できたのだと思います。戦後、東京の家に移り父と出会い結婚した。九十九里には墓といくらか土地が残されており、彼岸や法事など私も訪れる機会があった。

母、女学校入学時、私の祖母と記念写真、卒業後代用教員として地元の小学校で教員をしました。
私も教員になりました。

 私自身は東京生まれであったが、長野や千葉の両親の故郷に行く機会があったこと、当時の東京にも沿岸には葭原がありヨシキリや水鳥(バン?)を目にすることもできた。ヨシ原を分け入る間に昆虫網に入れていたヨシキリの巣を落としてしまったことが今でも思い出されます。

母と私 父撮影(母は2010年5月、父は1982年3月 亡くなりました) 

 5年生の時に担任の先生から科学教育センターに行くように話があり、父母の勧めもあって行くことにした。

 毎週土曜日、設備の充実した拠点校の理科室で受けた授業は、複数の先生が担当された実験は興味深く、小学校のレベルを超えていたのではないか?
ボルタ電池の電流と電圧の測定結果をグループでまとめ、マイク発表する経験をした。時には化石採集(栃木県葛生)、きのこ取りなど野外学習もあって、理科がより好きになった。葛生で採取したフズリナの化石は、紡錘状で岩石中に点在するもので、生物らしくなかったが、化石との出会いがここにあった。下の写真は、最近手に入れた教材の標本です。100均マクロで撮影したところ、意外にも構造まで写っていました。

Pseudofusulina sp.シュードフズリナ紡錘虫類(岐阜県大垣市赤坂町)

 中学は、いわゆる越境入学生だった。4階建のコンクリート打ち抜きの校舎は、1階に特別室、2階に職員室と一部教室があり、3階、4階は階段の左右に2教室が配置され、廊下がない構造になっており、静かな環境作りが意識されていた。
 英語科の先生が担任のAクラス。学年6クラス(AからE)が標準であったと思う。今では考えられないが、2週間ごとに英国数3科目のテストがあった。その試験結果は直ちに採点され、成績順に次回の試験会場が表示され、競争を煽る教育が行われていた。
 2年次では、1クラス増設され社会科担当の先生のFクラスになった。2週間テストは続いており、成績が下がってCクラスに入った時は、よくわからない悲しさがあった。試験終了後に通常の教室に戻ると別の集団と遭遇することがあり、何か選別されることに不安感もあった。

 中間テスト、期末テストは、さらに序列化が進み、学年ごとに男女別に上位25名の氏名が職員室前の廊下の壁に貼られていた。自分の学年だけでなく、毎回登場する優秀な生徒の名前が叩き込まれた。
 なかなか自分の名前を発見できなかったが、級友の優秀なお姉さんからは「ポーレンくんは平均点をもう少し上げないとね」と言われたものだ。

 中1は、楽しかった。級友に恵まれていたからか。毎日、NHKの「ひょっこりひょうたん島」の話で盛り上がっていた。彼女は、英語の発音がキレイで皆から一目置かれていた。高校を卒業してからか?フォーソング・グループとしてレコードレビューしていたらしい(She and I are in the same class.と発音するとき、一人で照れていた。Sheが彼女であったか、ゲルマンおかめとあだ名されていた彼女であったかはっきりしませんが)。

 理科は第一分野が、H2SO4(硫酸は龍三郎さん)先生、第二分野が、月の丘先生、楽しかったが、硫酸先生は角棒を手に授業を始める先生でした!!。授業の開始時、「目をつぶれ!」から始まり、前回の授業に関する質問が発せられ、間違って手を挙げると、その生徒の前に立って「手を出せ」と一言、角棒が振り落とされる。少し痛いぐらいだったが、半分遊びとして生徒たちも受け入れていたと思います。
 理科準備室には、シダの標本が額に収められられていた。硫酸先生は秀才だったのかな。月の丘先生も細身のリケジョで、白衣の似合う先生でした。

 2 私の初期成長

 5年生の時に担任の先生から科学教育センターに行くように話があり、父母の勧めもあって行くことにした。

左:終了時にまとめられた研究要旨集、右:発表風景 右端が私

 毎週土曜日、設備の充実した拠点校の理科室で受けた授業は、複数の先生が担当され、さまざまな実験はどれも興味深く、小学校のレベルを超えていたのではないか? 受けた教育内容の中から、ボルタ電池の電流と電圧の測定結果をグループでまとめることにして、マイク発表する経験をした。
 時には化石採集(栃木県葛生)、きのこ取りなど野外学習もあって、理科がより好きになった。葛生で採取したフズリナの化石は、紡錘状の岩石中に点在する程度のもので、生物らしくなかったが、化石との出会いがここにあった。

3 青春期に突入

この後、高校に進学し、演劇部に所属し、演劇に興味を持ち、アングラ劇団(東京キッドブラザーズ)の公演を見にゆくなど、受験勉強から逃げて浪人する。父は気のすむまでやりたいことをやれと言ってくれたのですが、アングラに接近するなら小遣いを使うな!と厳命されてしまう。

 牛乳配達は重いし、新聞配達は朝が早いので、ヤクルト配達を選び、夏休みにアルバイトを経験する。東京キッドは当時、人気があり大学全入運動とか政治的なメッセージも発信していました。事務所で、公演の手伝いなどして現実を知ると、そこには、また別の厳しい世界があり、距離を置くことになり、悶々としながら渋谷の駅でうろうろしていた時に、高校の芸術科目で書道を担当されていたTANJI先生と出会ってしまった。

大学受験を控え、さすがに自分でも情けなく思っていたこともあり、TANJI先生との出会いを契機に、受験勉強に取り組む。どくとるマンボウ青春期など自分の悩みと重なるような情報の中から、将来像が見えてくる。この続きは、その20に記しました。


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