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前向きエネルギー

頑張るって、疲れませんか?

私はものすごく疲れます。
だって、頑張るって過剰なエネルギー放出だから。

「がんばった分だけ報われる」「おめでとう、よく頑張ったね」
など、幼い時からよく耳にしてきたけど、「その源にあるものは一体何なのか?」という論点がいつも置き去りにされていると思います。

「目標まであともう少しです。頑張りましょう!」と会社の業績に向けて上席の方々は口にするけど、それに従ってみんなが頑張るのは、その裏側に「報酬」や「評価」などの対価が目の前にぶら下がっているからではないでしょうか。

昨日、わたしの町は夏祭りの日でした。おおよそ全国的に9月15日はお祭りで、おそらく昨日は全国の小中学生が普段とは違う時間を各々で楽しんだことでしょう。

私も子供の頃、お祭りは年に1日だけ「夜更かしや買い食いがオフィシャルで許されるビッグイベント」でした。ソースせんべいや杏子飴、大阪焼きなど、好きな物を買い食いしてわずかなお小遣いを使い果たし、夜の9時、10時まで友達とにぎやかに開放の時を満喫したり、少しませた年齢になると、女の子を誘って男女で過ごしたりと、すこぶる大人ぶったものです。

小中学生が夜の9時、10時まで全力で遊ぶ。

今思えば、それはかなりのエネルギー消費が必要なことです。でも、不思議なことに、そこに「疲れ」を感じた記憶は微塵もないのです。正確に言えば「疲弊感」というべきかもしれないけど、いずれにしてもなぜ、そこに「疲れ」を感なかったのか?

もちろん、単純に若いから体力があるという理屈も否定はしません。
けど、仕事や人付き合いから生まれるあの「疲弊感」はそのころには見当たらなかったと思います。そしてそれは、小中学生の頃のお祭りだけに限ったことではなく、高校に入ってからの部活や大学、社会人になってからの趣味、友人との遊び、恋人とのデートなどは、原則として「疲弊感」が残らないと言ってよいと思う。

なぜか?

それはきっと、それらの類に放出されるエネルギーはすべて「前向きエネルギー」だからで、好きなこと、好きなもの、好きなひと、といった「その人を夢中にさせる理由」が存在しているからだと思う。
小中学生のお祭りを例にすれば、その理由は「大人ぶれる」からだったのでしょう。

一方、週末思いたったかのように掃除や洗濯をした時に放出されるエネルギーは「気まぐれエネルギー」に過ぎないので、やり終えたあとに「疲弊感」が残ります。(妻から言わせればその段階でただの”戯言”として一蹴される程度のものだろうけど…。)

さらに「疲弊感」が残る極めつけは、生活のために無理やり使う仕事のための「頑張るエネルギー」。しかも、放出の量に応じてその後の「疲弊感」の量も増す。ようやく解放される金曜日には飲んだくれて、結果、土曜日は昼まで爆死している・・・

同じ仕事でも、大谷翔平にとってのメジャーリーガーの日々に、きっと「疲弊感」はないと思う。もしあるとしたら、連敗したときやなかなか本塁打が出ない日々が続いた時ぐらいで、それでも「疲弊感」を上回るぐらい、明日の試合に向けた「前向きエネルギー」が沸いてくるに違いない。そして、その結果が実を結んだ時、これまでの疲れがすべて吹き飛ぶくらいの「達成感」に満たされるのでしょうね。

そう考えると、多少、っていうかまるでレベルの違う例えではあるけれど、「頑張る」という感情を主軸に物事、とりわけ仕事と向き合うのはあまり得策とは言えないのではないでしょうか。いや、きっとそうに違いない。

仕事に結果が出ないのは「頑張らない」からではなく、「前向きじゃない」から。それは仕事に限らず、勉強や習い事など、様々な物事にも通ずることだと思う。

「頑張って結果を出そう!」じゃ人の心は動かない。
人の心を動かすには、「前向きになろう」であるべき。

「前向き」なら、無駄なエネルギー放出がなくても最大のパフォーマンスを引き出すことも可能です。なぜならそこには「報酬」や「評価」とは全く別物の、「頑張るエネルギー」や「気まぐれエネルギー」では到達できない「成果」や「達成感」が待っているのだから。もちろんそこに「開放感」が付きまとうこともない。さらにはその感覚が「やみつきエネルギー」へと進化して、より一層前向きになれる気がします。

~本日の善玉訓ぜんだまきん

✓前向きエネルギーは、疲れない
★★★★★ 最大のパフォーマンスで、達成感を味わえる

大切なことは、前向きになれる「理由」をみつけること。それさえ見つければ、無理やり頑張らずにすむのだから。。。

(ぴん👆)



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