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PTSDは非常に厄介な病気である
これは重い病の全てに通じることでは
あるが、その苦しみはならないと
理解に達することは難しい。
私の場合、まず薬が無い事が問題となる。
睡眠導入剤や安定剤は通常の量では
全く効き目は無いので、一度に2回分
飲んでいる。
この病気はまずやる気が起きない点が
一番厄介で、ほとんど上がり下がりも
無いままであるため、何かをしようと
してもすぐにやる気が失せてしまう。
逆に苛立ちに関しても同様に、怒り等
の感情はほんの数分で消えてしまう。
感情が無いのとはまた違って、
このやる気の無さから生や死を考えると、
必ず生きている意味の無さを感じて
しまう。
薬には必ず副作用がある。
私が飲んでいる薬では、夢と現実の
区別がつかなくなる事は週に2度以上
あって、確かな記憶として残っている
ものであっても夢である事がある。
そこで当然苦悩する。
まるで自分が二人いるような感覚に
襲われることもある。
通院は週に一度だが、前日から用意
して行く準備はしているが、
朝に目覚ましで起きる前には必ず
起きてしまう。
時には3時間ほどで目覚めてしまう
時もある。
睡眠不足からストレスが余計に溜まり、
元々あるストレスの上に更にのしかかり、
心だけで無く、体にも影響が出てくる。
今の日本の精神的な医学に関しては、
実際はほとんど何もわかっていない。
薬を出すだけの場所でしかないが、
恐らく医学の中で一番難しいからだとも
言える。
あとは、やはり世界の中からすれば安全で
あるが故に、サンプルである病人も少なく、
知識もまだ浅いと言える。
米国精神医学会が1980年に認めた病気であり、
最初は軍の帰還兵から見つかった。
しかし、その後の研究により、近年では
日常の生活の中でも発症することが分かった。
PTSDは他の精神に影響を起こす曖昧な
病気より症状はある程度明確に分かっている。
理由としては、帰還兵の多くが自殺した事に
より、事を重くみて研究がなされた事が
強いとされるだろう。
症状として多くあげられているのはいくつか
あるが、その中でも多いものを幾つかあげて
みよう。
・死の危険に直面した体験の記憶が
フラッシュバックのように思い出される
・悪夢を見る
・不安や緊張が高まる
・辛さのあまり現実感がなくなる
このようなものが多くを占めるため、
最初は帰還兵に起こる病気とされていた。
日本ではあまりこの病気にかからない
理由もお分かりになるだろう。
まず死の危険に直面する事が少ないので、
非常に起こりにくいものである。
幼児虐待などの場合ではまだ精神が発達
していないので、例外となる。
私の場合は、父が愛犬を毒殺した後、
弟を殺そうと私に話を持ち掛けたのが
きっかけであった。
当時の家庭内状況からすれば一番邪魔で
あるのは私であった。
しかし弟を先に殺そうとした事から、
次は必ず私に焦点が絞られると感じた。
仮に弟を殺せば、裁判で必ず負けて
刑務所に入る。
弟を殺したから私を殺したという
意見も裁判では通る。
事件性が無いと警察が調べることは
ないので、弟の場合は強制的に何度も
精神病院に入れられていたので、
理由はいくらでも作れた。
つまりは私が弟を殺さない限り、
私を排除することは困難な状況だった。
しかし、猛毒等も入手可能な父で
あったので、用意された食事には
手をつけなくなった。
違法であることを知りながら弟には
何かの薬を盛っていた食事をさせて
いた。
この事からまず悪夢を見だした。
毎日同じ夢であったので、通常であれば
夢は忘れるものであるが、今でも覚えて
いる。
場所は私の部屋で天井一面から黒くて
固い大きな物体がゆっくりと下りてきて、
私の体全体を圧迫しながら、じわじわと
まずは肉から裂けて潰れていく。
肉が潰れたあとは骨が音を鳴らしながら
砕けていく。そして最後には私は完全に
潰されて消滅する夢を毎晩見ていた。
まだ弟を精神病院に入れていた頃は、
私にも情報はおりてきていたので、
家の各所に盗聴器等がしかけられて
いた事を知っていたので、
私の部屋でさえも可能性は排除でき
なくなっていた。
不安や緊張は最大にまで達して、
日々、命の心配をする事により
現実を見失っていき、夢もまた
変わっていった。
私の部屋は三階にあって、
何故か冷たい部屋で息を吐くと
白かった。
とても静かないつもとは違うと
感じるままに、私は二階に下りると、
階段から居間にいる父の背中が見えて
いて、何かをしていた。
電気は廊下も居間にもつけられておらず、
薄暗いが、朝焼けのような感じだった。
廊下を進んでいくと、父は手術衣を
着ていて、横にある銀色の大きな入れ物に
臓器を入れていた。
そして背を向けたまま、私に言ってきた。
「死体は大学の死体安置所に持っていく
から手伝ってくれ」
とても嫌な予感しか当然しなかったが、
私は居間までの途中にある洗面所を見ると、
弟は椅子に座らされていて、首から下腹部
まで縫われていた。
死んでいるはずなのに目を開けて私を見た。
立ち上がって私に近づいてきたので、
私は三階に逃げて、更に四階に上ったが、
ゆっくりと追いかけてきた。
私は屋上に出て外を見ると、外はまるで
戦争でもあったかのように、火事や煙、
砕かれたコンクリートの家等が辺り一面
に広がっていた。
私は隣の家の屋根に飛び移ると、屋根伝いに
とにかく逃げた。弟は追いかけてきたが、
何とか引き離している途中で、
いつも目覚めていた。
鼓動が強く鳴っていて汗の絶えない悪夢を
私は数年の間、見続けて精神が崩壊した。
奇跡が重なり生き延びたが、現実に起きた
悪夢のようなものと悪夢の日々は、
寝ても覚めても地獄の日々だった。
表では誰もが腐りきった父の味方をして
いて、裏でも私の味方はいなかった。
ただ、警察は私の味方をしてくれていた。
しかし、公にはできないまま裏で私を
励ましてくれていた。記録も保存して
くれている。
今でも私は精一杯頑張って生きている。
気を抜けばまた地獄に落ちるからだ。
哲学の極みである頑張るという意味も、
命の危険から生まれたものであった。
命賭けの意味を知ることはできた。
中でもアインシュタインの綴った
ものは一番救いでもあった。
彼は赤裸々に、普通の人が恥だと思う
事まで詳細に書いていた。
そして乗り越えてきていた。
そしてアントニオ猪木氏にも大変
勇気を頂いた。
普通の人は、大抵死後に死の通知を
世間に出す。
理由は簡単だ。
死の淵まで行くと、もうボロボロに
なるからだ。そんな姿を人には
見られたくないと思うのが普通で
あるが、アントニオ猪木氏はもう
見る影もないほどボロボロになっても
最後まで姿を世間に晒していた。
実に二人とも勇敢であると心から
感銘を受けた。
だからこそ私は生きている。
苦しみや苦悩の果てにいても
生き続けた前例がある限り、
同じ人間として不可能では無いと
言う事を教えてくれた。
御二人ともが最後まで自分のままで
生きていた。
それはとてもすごいことである。
人間は最後には本性が出るもので
あるが、二人ともが変わらず人生の
幕を下ろした。
最期の幕引きこそ、自分の人生の
最期の仕事だと私は思う。
変わらない人生の死に様を見て、
人は勇気をもらう事ができる。
私も乗り越えるために頑張ると決めた。
頑張らなければ乗り越えられない。
だから頑張る人を応援している。
だらけた姿は見苦しいものだ。
だが、恥を捨てて頑張る姿は美しい
ものである。
死より辛いのは当たり前であるが、
当たり前のことならば頑張るしか
道は無い。
時には落ちることもあるが、必ず
再び頑張ろうとするだろう。
その度に、御二人を思い出し、
それを胸に刻んで私は生きていくだろう。