階層論の処理
Chatgptや生成AI,インプレゾンビなどの話で思い出すのは、昔のAI論議やブレインサイエンス、遺伝子工学、複雑系の問題などで繰り返す無限大が発生してすぐにそれを技巧的に収束させるという問題の繰り返しに見えるのだ。これは量子概念の元々(無限大ではなく非連続な単位)からあるいは数学上の技巧からずっと前からある問題のようにも思えるのだが、知能が何なのかよくわかっていないのに人工模擬知能のようなものをあつかっている(「知能」という言葉がシンボルグランディングする)ように見えるのだ。多分ポランニーのモデルだと知能と生命進化は関係あるのだが、両方ともわからないのだ。以前栗本慎一郎が「進化論をやりたい」といったとき、「なんて馬鹿なことをいうんだ」と思った人がいると聞いたが、それでは翻って心だの知能だの認識だのがわからなくてわたしたちは学習だの教育だの学校だの科学技術だのをやっているのかというわけだ。私個人は25年間くらいこうした問題を追っているのだが、いつまでたっても偽の危機感と同じパターンの擬似問題が提出され続けているかのように処理してしまうのは老齢のせいだろうか。さてそういう意味でホイルの酵素や宇宙の物質組成の問題は何か新規な手がかりを出していたようにも見えるのだが、雑文としてマイケル・ポランニーの階層論とホイルのそれを対応させることを考えていこう。
「生命は、酸素と炭素の宇宙存在量がほぼ等しいかどうかに依存している。 どちらか一方が他方よりも著しく優勢であれば、生命は誕生しない。 酸素の方が炭素よりも多く存在することが必要条件であり、それがまさに実際の状況なのである。これらの元素はいずれも、星の内部で起こる核反応によってヘリウムから生成される。」「酵素の特性を計算することは、人間のレベルから見れば驚くべき業績であることは間違いないが、物理学の結合定数を制御できる知性にとっては、むしろ簡単なことに思えるだろう。天文学的に言えば、生命の起源を制御することは、おそらく恒星規模のプロセスを制御することに等しく、結合定数を制御することは、おそらく銀河規模のプロセスを制御することに等しい。」すべての元素はビッグバン後に合成されビッグバン直後にできた元素の大半は水素とヘリウムのガスで、その水素とヘリウムのガス雲が重力によって集まり恒星が誕生。赤色巨星で3つのヘリウムが核融合して炭素が合成される。ビッグバン元素合成では生成されない炭素12が恒星内で合成される反応は現在のスーパーコンピューターを用いた「第一原理核構造計算」でも完全に説明できない。https://www.phys.tohoku.ac.jp/topics/topics-2052/
https://news.goo.ne.jp/article/sorae/world/sorae-sorae-122329.html
ホイルは自らが名付けたビッグバン仮説をとらない。生命の生成にかかる時間が180億年では足りないとする。システム(矢印は、より高次の存在からより低次の存在への進行を示す。)... → ????? → ???? → ??? → ?? → ? → 人間 → ... において結局は無限に遡及してゆくことになるのだが、かといって無限に溺れるのではなく道標として段階的に酵素の生成、結合定数の制御などの定量化、計算可能性を探ることになる。
わたしたちの世界は何故悲惨なのか
その理由としてホイルは宗教の科学に対する圧倒的幻想性、妄想性をあげる。社会的階層も宗教的階層も世界全体を表そうとする宇宙像ではあるだろう。問題はホイルがオーパーツだかアイテムのように宇宙に手がかりが隠しこまれてる可能性を語るところだが、その場合上位存在は実体ではなくバラバラの意図あるいは集合で示唆される方向でしかないことになる。これは死のゲームに拠って加速されているのだろうか。そう、わたしたちは神を人格化することの弊害についてあきれるほど体験してきたではないか。またナチがやってきたことを再び繰り返すというのだろうか。
茂木健一郎は自身が監修者名義になっているホイルの邦訳の解説で、ホイルの議論は結局生命の起源について説明せず場所を宇宙に移しただけだという批判(?)に対して、いやホイルは定常宇宙論を唱えているから無限の時間に話を移したのだと(起源は無い?)見当違いと思われるような答えを書いている。今見てみると栗本慎一郎の「パンツを捨てるサル」「意味と生命」などの結論はフレッド・ホイル「生命は宇宙から来た」Evolution from Space の未邦訳部分(最終章と結論)と相同する部分があり、この本がかつて省略されて訳されたことは致命的に何かの発達を遅らせたようにさえ思える。それが茂木健一郎の結論にも影響を与えているとしか思えない。ホイルは生命の起源を無限にそらしたのではなくはっきりと階層化された複数の知性がそれぞれのレベルで介入して計算したといっているのだ。だからそれぞれのレベルの手がかりを探っているのであって茂木健一郎の答え方は話をそらしている答え方である。
だからあっさりいってそうした知性の計画を暴露することが科学だと言ってしまっているわけだ。
宇宙論と生命(進化)論を神話(物語)抜きに説明するということが人類に求められている(ポランニーが目指したのはそれだったようにおもう)が、物語に回収されてしまう。
小説「三体」2部のストーリーにVRゲームの中で周の文王が出てくるあたりで興味を失ってくる。マルチユニバースのように何でもありになる。特に生物進化について所与の前提になっていてモデルも何もない。物理学しか出てこない。そもそも生物が存在する意味も示唆さえされない。なのに主語的なキャラクター描写と人間ドラマが出てきてしまう。何らかの宇宙モデルに基づいて現実の世界を説明するものがほしい。
地球外文明などというものは存在しない。というより、文明という言葉の尺度があいまいであり、あくまでもこちらがわの視点にすぎないからだ。
サイエンス・フィクションとはサイエンスは物語を拒絶する領域でありフィクションとは物語にしてしまうことだ。物語をもっともらしくするためにサイエンスがつかわれるのではなく物語の破綻を意味する。だから反物語にサイエンスがつかわれればSFになる。ダーウィンの説をみて思うのは人間の了解範囲をこえた時空に展開するのが進化であり、了解とは物語への回収を意味している。無意識を持ち出しても非決定を持ち出しても投げ出しているだけで身体的であろうと了解はもたらされない。そういう意味でサイエンスは言語である。
ホイルは木村資生の分子進化の中立説たる、環境と関係なく遺伝子がランダムに変化した結果が進化であるという説(これは適応という概念を無効にする)に対して、アミノ酸から酵素を作り出す確率は10の4万乗分の1であるという仮説を対置する。木村の説は遺伝子なので、すでにアミノ酸から出来上がってしまったものを前提にしているが、確率として少ないという問題は逆に宇宙を無限にして無限回の試行を可能にすれば成立する。しかしホイルはそういう意味で宇宙を定常といっているわけではない。なぜならそういう意味ならダーウィンの説が拡張されて保持されているわけであってダーウィンのいうことが確率的に低いという批判自体が無効になるからだ。
自然選択の過程はもう生命が所与になってしまってからの話だが、ダーウィンの説を拡張するにしても人間が了解できる範囲を越えている、ということは意識に捉えられないの過程なのではないかという疑問がわく。今目に見える材料からは演繹できない何かということになる。