フーコー1
フーコーの記述行為の方向性はどこにあるのか?フーコーの記述行為を言説行為と言えるかも知れないが、フーコーが記述した対象を言説行為の歴史とは言えない。とくに初期の精神医学や人文社会科学の「アカデミズム専制」の言説が近代社会の人口を拘束的に規制するやり方を集合的な言説行為という「呼び名」をつけるとしても、主体の系譜学の対象を言説行為とはいえない。単に出来事の非連続な積み重ねが記述されるが、それをなしているのはフーコー自身の言説行為であって、歴史的対象とされた主体の言説実践が対象になっているわけではない。系譜学は言説の考古学に回収されない。かといって考古学=言説で、系譜学=行為というわけでもない。これは非在と有(刊行中のハイデガー全集では「存在と時間」は「有と時」となっている)の弁証法なり二項対立の一環、当てはめなのだが、不可能と可能の二項対立が対称的な対立ではなく非対称であるように、比較が不可能なのである。