信田さよ子「家族と国家は共謀する」読書日記

1まえがきー母の増殖が止まらない
フォーディズム=家父長、ポストフォーディズム=増殖する母親、という対比になっており、いわゆる「液状化する社会」が、逆に母の役割りを増殖させ抑圧的な「家」が強化されるとある。「液状化する社会」は、真っ先に家族を解体するように私は思っていた(ボルタンスキー「資本主義の新たな精神」など)。ここでは逆に抑圧的側面が強化されゆえに分離への傾向も生まれるということになる。

第一部 家族という政治

第一章 母と息子とナショナリズム
まえがきの最後で母娘について軽く触れられ、この章では母と息子の関係がクローズアップされる。「父の不在」ということがとりあげられるが、日本では母親が対象化されにくいという。キリスト教個人主義下における「父による切断」の有無が示唆される。

第二章 家族は再生するのか
ここで疑念が生ずるのだが、国家論で定義が際限なく曖昧で多様で決まらないように、「家族」とは何であるかが定義できないのではないだろうか。近代社会の単婚小家族制、父母と子、この章の最後に「愛と性と生殖の三位一体説の一角を崩していくことで、暴力の防止が図られるのではないだろうか」とあるが、この三つも定義は困難に思われる。

第三章 DV支援と虐待支援のハレーション
児童虐待と家族内での女性への暴力への対処は国の制度として世界的に二つの部署に分けられている。児童虐待はわかりやすいが成人女性は大人だからとクッションが置かれる場合が多い。男女の権力勾配に対する考慮が欠けているのではないか。(まとめ)

第四章 面前DVという用語がうんだもの
子供の面前で親がDVをすること自体が虐待であるとされる。子へのすり込みが次世代DVへのきっかけになるとされる。

第五章 「DV」という政治問題
因果論から循環(システム)論、スクールカウンセラーの導入、「加害者」「被害者」という司法パラダイムの導入。

第六章 家族の構造改革
引きこもりは家族に問題があることが多い。家族間に距離感を導入すること。

第二部 家族のレジスタンス

第一章 被害者の不幸の比較をどう防ぐか
「被害者権力」という考えが出てくる。ニーチェの話を思い出す。

第二章 加害者と被害者が出会う意味
自然災害でない人為的な被害の場合、被害者は加害者の理由を知って自分の蒙った被害を理解したいと願う。

第三章 加害者アプローチこそ被害者支援
幼児期の影響で現在があるという因果論から離れて今現在の行動を問題にする。そのこととと関わるが過去に酷い被害を受けても立ち直ってくる人々、子供たちがおり、その立ち直りをレジリエンスという。被害者は、様々な加害に対する抵抗(レジスタンス)を行っている。

第四章 レジリエンスからレジスタンスへ
レジリエンスは自然的力能というよりもっと意図的なレジスタンスの側面を持つ。症状は迂回された抵抗(レジスタンス)である。

第五章 心に砦を築きなおす
被害者権力にとらわれることなく一時的な砦として正義をとなえること。

あとがきー知識はつながりを生むのだ
国家と家族の相似形は抑圧委譲という概念によっている。国家から家父長制権力である家族に抑圧が移譲される。それは強者が弱者を抑圧するイデオロギーである。

感想 鍵となる抑圧委譲がはっきりしない。因果論なのか構造論なのか。

一年後の『現代思想22年7月「加害者」を考える 臨床・司法・倫理』信田さよ子「DV加害者プログラムの実践経験から」では、加害者の負ったトラウマに親からの虐待が含まれているから、そこは因果論である。

結局臨床がわからないので外から枠を嵌めているようで印象に残らない。

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