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私はあなたの、絶対なの。

 おはようございます。ちょれぎです。2024年は失ったものがたくさんありました。CLの優先権だったり、パチンコパチスロによる多くの金銭、またそれに伴う多くの時間だったり。。。2025年はもっと時間を大切にしていきたいと思います。

今日が終わる いや今が終わる
そう思えた奴から
明日が変わる  

MOROHA『革命』より


 さて今回は、『デッドデッドデーモンズデデデデデストラクション』の感想を書いていこうと思います。いつもポケモンカードを一緒にしてくれるRiN-modeさんにオススメされて、年末のひまを利用して一気見しました。ありがとう檸檬堂さん。

まだデデデデを観ていない人は観るなり、マンガを読むなりしてからこの先へ進もう。


人類と侵略者の思考の違い


 我々人類が「個を個として解釈する」のに対し、侵略者側は本質的にはみんな(並行世界の自分自身も含めて)同じだと捉えているのだと私は解釈しました。それ故に、争いは必要無いと考えられていますし、死後の世界で皆が再会できているような生命体として存在しているのだと思います。
 「個人」というのは「私+周囲の人間(と物質)」だと私はそう思いながら生きています。周囲の人々に幸を与えていくような生き方が自分自身のためになると思います。「情けは人の為ならず」ということです。この地球でも東洋においてかつてはそのような思想もありました。仁義礼智とはいいことをいったもんです。しかし、帝国主義に敗れ、力に支配されてしまい、今では見る影もなくなってしまいました。正確には幼少期にはそのようなことも教えられるのですが、社会に毒されていくうちに忘れてしまうのです。
 侵略者の調査員であるイソベやんは人類の文化レベルについて「技術と倫理の不一致」と表現していましたが、それは全くその通りであると思います。侵略者たちの文明は人類よりもはるかに進んでいるのに対し、破壊兵器などは生産されていない模様。しかしそれほどの倫理をお持ちの侵略者さんたちも下等生物や家畜という思考だったり、首脳陣は地球に送る人々をだましていたりとなんだか平和ではないですね。。。倫理のレベルでは人類と大差ないのでは。。。 侵略者も人類もますます本質的に大差がないのかもしれませんね。
 肉体と精神の関係についても少し触れておきたいところです。侵略者たちは肉体を器だと捉えています。異質な顔が肉体の中から現れる描写が何度かありましたね。それに対し人類はどうでしょうか。ここには個人差があると思います。これは太古からそうだと思います。西欧ではプラトンやデカルトをはじめとする哲学者が、東洋ではジャイナ教などの思想に身心二元論が含まれています。ウパニシャッド哲学から始まり、仏教にもある輪廻思想なんかもその一例だと言えるでしょう。それに対し、身心一元論の方では、儒教での知行合一であったり、スピノザをはじめとする汎神論者たちの中にももしかしたら一元論者がいるでしょうか。ほんとにバラバラですね。
 私自身は、知行合一を大切に生きています。日本人ですし。心に思うなら行動するべきですし、行動する以上はその心も求められると思います。「感謝の気持ちが大事なんだよ」といって大して何もしていないそこのあなた。悔い改めてください。あといただきますは言いましょう。手も合わせましょう。心と行動が大切なのです。



正義という疾患

鉄の弾が 正義の証明
貫けば 英雄に近づいた
その目を閉じて 触れてみれば
同じ形 同じ体温の悪魔

ヒグチアイ『悪魔の子』より

 ここでは、作中に登場する「正義という疾患」の権化である小山門出と小比類巻健一について見た後、私が考えたことを書いていこうと思います。


小山門出の正義

 調査員であるイソベやんと出会い、人間が平和的な生き物だと証明しようとする門出。クラスメイトと人助け活動を行うことから門出の正義は実行されていきました。しかしイソベやんは小学生の人助け活動でさえも「ただの自己満足」「なぜ自分の正義が正しいと考える?」と一蹴しました。このときは侵略者の知性レベルだと小学生でもそんなことまで理解できるのかぁと思ったのですが、後半を観ているとそんなことはなさそうでした。イソベやん、小学生にまでマジレスするタイプの厄介さんでした。そんな中、門出の思考は徐々に急進的になり、ひとりで夜な夜な門出の思う悪人を狩るようになっていきました。。。

「一番恐ろしいのはそういう悪意のない人間だ。・・・ましてや、それが
自分の中の正義と結びついている人間は、誰にも止められない。」

中川ひろし

 平和を獲得するために犠牲が必要だという自己矛盾的な考えは、人類史上多くの悲劇を生み出してきました。門出にとっての正義は「平和」であり、はじめは誰かのためになっていたのに、いつしか本当に自己満足となってしまっていたのでした。


小比類巻健一の正義

 ネットで得た情報を鵜吞みにするリテラシーの欠片もないやつ。キホの死が最後のトリガーとなり情動に動かされるまま、自分を守りたかったのか、人類を守りたかったのか、侵略者狩りをしていきます。最後には人も殺すし、なんか世界を、いやもしかしたら銀河までも支配しそうなキャラクターになってて横転。小物だと思っていたのに。。。
 小比類巻の正義の開始地点は防衛。いきすぎて途中からただのリア狂でしたが。。。しかし彼は「お前の中の正義はお前の中でしか成立しない」と言っており、よくわかってんじゃんと思いました。分かっているのにあの行動なんですか。。。リア狂恐るべし。


『進撃の巨人』における正義

 正義について語るとき、『進撃の巨人』の話は避けては通れないと私は思います。デデデデにおいては、正義の疾患としての行き過ぎた側面ばかりが描かれてきましたが、『進撃の巨人』では決して行き過ぎたわけではない、しかし交錯する3つの正義が描かれていきます。皆が皆、仲間のために戦い続けるのです。

躊躇えば 仲間が死ぬ

『進撃の巨人』ミカサ・アッカーマン、ジャン・キルシュタイン

 この作品における正義はすごく人間らしいと思います。我々人間の限界を表しているとともにそれに抗おうとする人間らしさ。神マンガたる所以でしょう。
 もちろん、この作品にも正義の暴走はあります。エレン・イェーガーにとっての正義は104期の仲間こそが正義であり、仲間のために地鳴らしを起こしたのです(エレン自身の破壊衝動もありましたが、、、)。エレン・コヒルイマキというわけですね(???)

世界は残酷だ それでも君を愛すよ
何を犠牲にしても それでも君を守るよ
間違いだとしても 疑ったりしない
正しさとは 自分のこと強く信じることだ

ヒグチアイ『悪魔の子』より

 曲調とエレンへの感情移入に錯覚させられていましたが、よく見ると恐ろしい歌詞ですね()


正義たりうる人格

 正義たりうる人格の持ち主など存在するのでしょうか。正義が人それぞれであることはこれまでの話でよく分かっていると思いますが、個別だからといって、人はそんな大義名分で行動してよいのでしょうか。
 答えは否です。そんなもの目指さなくてよいです。正義より前に私たちはやるべきことがあるでしょう。まずは自分を律しましょう。そして周囲の人間を大切にしていきましょう。世界を救うなんてのはさらに数段先です。この時点で人類のほとんどが脱落していると思います。しかし、自分を律せない人に周囲の人をどうこうすることはできませんし、それは帰納法的に規模が大きくなっても同じことです。皆さんもこれを機に自身の生活を、周囲との関係性を見直してみることから始めてみるとよいかもしれません。私は落単をなくし、生活リズムを正すことから始めていきたいです。知行合一とはよく言ったものです。。。
 凰蘭のシフトはそういう意味では律が足りていなかったといえます。まずは自律。そこがスタートなのです。
 とはいうものの自分を律せないというのも人間らしくて私は好きです。むしろ小学生にそれを求めるのは酷というものです。



シフトする

 ここからはシフトするとは何を意味するのかということについて考えてみたいと思います。


現実を変える?

 凰蘭もノブオも受け入れ難い現実を変えるためにシフトしました。それでも、シフトする前の世界線では辛い現実が続いていくのです。つまりは現実逃避ということにならないだろうか。まるで辛い現実から目を背け、インターネットの世界に逃げ続ける現代人と同じではないか。もっと現実を見ましょう。あなたの周囲の人のためになることを一つでも多く行いましょう。もちろんインターネットにも素敵な側面はありますからバランスが重要ということになります。現代人よ、現実と戦え。
 作中ではマコトが現実と戦い続けることを選択します。俺が生まれたのはこの世界だからという理由で。この世界で生きるというのはそういうことなんだと思います。

現実は辛い暗い 時に苦しい
それでも妄想よりは眩しい

MOROHA『革命』より



それでも私たちは、生きていく

 この物語は門出と凰蘭の日常を描いたものでした。これまで、正義がどうだとか、現実逃避がどうだとか書いてきたわけですが、この物語にとってはそんなことは重要ではないのです。重要なのはどんなに世界が変わってしまっても、「変わらないもの」があるということなのだと思います。門出と凰蘭にとってお互いが絶対であるというのは何が起きても変わらなかったように。変わらない日常を変えないように大切にしていくことが善き生の在り方の一つだと、そういうことがいいたいのではないかなと思いました。先ほども言いましたが、正義よりも周囲を大切にしましょう。
 二葉や小比類巻のように、危機意識に煽られ、何か行動を起こそうとする人もいると思います。それ自体には是非はないのです。ただ、正義に溺れず、本当に大切なものを失っていないかちゃんと確認しながら前へ進めることを願っています。
 何が起ころうとも、私たちは生きているのです。生きるしかないのです。急にいなくなったりしないでね。

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