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正しい「悪」の滅ぼし方 (西尾維新編)

(以下、「めだかボックス」の多少のネタバレが含まれます)

「悪を滅ぼす」ことのジレンマ

フィクションにおける「悪の滅ぼし方」について考えてみたい。

そう言うと「相手が再起不能になるまで痛めつければよいのでは?」と単に想像しがちである。しかし意外とそうでもない。その解決策を選択するには、いくつかの障害が存在するのだ。
主人公が「悪の象徴」を圧倒的なパワーをもってボコボコにする場面。それは読者にカタルシスを与える一方、あまりに「やりすぎて」しまうと、今度はそのパワーが「裏目」に出てしまうことがある。端的に言えば主人公に対して「引いて」しまうリスクがあるということだ。
キャラクターのその圧倒的な強さが裏返って「過剰な正義感」「強者の暴走」といった印象として現れる。その危険性が常に存在する。
いくらそれが「正義の行い」だからといって、敵を徹底的に痛めつけることはできない。それは許されない行為なのだ。「過剰な正義」はもはや「正義の行い」ではなくなってしまう。

しかし前述したように、物語というものはその「ウザい敵がボコボコにされること」を大きなモチベーションとして進行していくという側面があるだろう。
われわれ読者がバトルに期待するものとは、結局のところ「ムカつく奴が主人公によってボコボコにされる場面」ではないだろうか。読者が求めているのは、まさにその「暴力」ではないだろうか。
そうなると「正義vs悪」のストーリー展開には、はじめからジレンマが内包されていることになる。
「敵のことをボコボコにしてほしい」が、一方で「あまりに痛めつけるのも、それはそれでNG」———といったジレンマである。

ではその齟齬への有効な対策として考えられるアイデアとはなんだろうか。まっさきに思いつくのは、単に「やりすぎないでおく」という解決策である。
敵にダメージを与え「すぎる」ことが問題であるのなら、その加減をコントロールすれば良い。「やりすぎ」にならないよう気をつけていれば、「正義」の内にとどまりながらも暴力の行使が許されるのではないか?

ここで西尾維新がジャンプコミックスで連載していた「めだかボックス」を見てみよう。主人公の「黒神めだか」は生徒会長として、「箱庭学園」内で発生する様々なトラブルを解決へと導き、その役割を果たしていくというのが大まかなストーリーだ。

めだかボックスのはじめの山場は「風紀委員会」と黒神めだか率いる「生徒会」が対立するシーンである。このときめだかは、風紀委員会のトップであり彼女の「敵」である「雲仙冥利」にとどめを刺そうとする。が、他の生徒会メンバーにこれを止められ、めだかが雲仙に致命傷を与えることは回避される。その際、生徒会のメンバーたちがめだかにかける言葉は「やめろめだかちゃん やり過ぎだ」である(※1)
もし仮にめだかが雲仙を再起不能なまでに追い込んでしまえば、その瞬間めだかから「正義」は剥ぎ取られてしまう。めだかは主人公ではいられなくなる。だからこそ、めだかは「やりすぎ」てはいけない。その寸前で止まる必要があったのだ。(ちなみに雲仙のモットーは「やりすぎなければ正義じゃない」である)

次に現れる強敵———「都城王土」との戦いではどうか。めだかはここで、雲仙とのバトルの時のように激昂して我を忘れることはなく、いたって冷静に「悪いことしたらごめんなさいだろ」と都城王土に述べる(※2)。そして都城王土はめだかたちに謝罪し、戦いは終結する。
めだかと行動を共にした「人吉善吉」は「阿久根先輩と喜界島———俺はもとより敵方の名瀬先輩や古賀先輩や行橋先輩にしたってあそこは気持ちよくあの男をぶっとばしてほしかったというのが本音だろう」といった感想を抱く(※3)。が、彼は「…ただまあもしも めだかちゃんが暴力でことを終わらせていたらこんな風にみんなで仲良くエレベーターに乗れちゃあいなかったんだろうな」と納得する(※4)。
この「殴ってほしかった」とうのは、われわれ読者の願望でもある。読者は王城がめだかにボコボコにされるところを期待しているが、しかしそれは許されないのだ。

消極的アプローチ

次に考えられるのは「なるべく敵を倒そうとしない」「相手を滅ぼそうとしない」「主人公が自分からトラブルに首を突っ込まない」———といった、いわば「消極的アプローチ」とでも言えるような態度である。
めだかのように「やりすぎ」てしまう可能性があるならば、始めから「正義の側に立たない」「力を持たない」というスタンスである。
例えば「化物語」の「忍野メメ」というキャラクターは、困っている他者を自ら「助ける」ことをしない。その姿勢は、彼が事あるごとに口にする「人はひとりで勝手に助かるだけ」という台詞に現れている。彼の仕事はバランスの偏りを調整することであり、それ以上の手出しは決して行わない(※5)

いっぽうこのシリーズの主人公である「阿良々木暦」が行うのは「積極的アプローチ」とでも呼べるものだ。
彼は自らトラブルに首を突っ込み、どうにか自力で解決に導こうとする。その結果、阿良々木くんは常に自身が行った選択について悔やみ続けることになる。他に選択肢はなかったのか、と彼はいつまでも悩む。しかしこの後悔と反省がなければ、阿良々木くんは積極性なアプローチを行うことができない。
仮に阿良々木くんが「どんな結果であれ自分がやったことは善意に基づくことであるから、後悔する必要などない」と口にするキャラクターであれば、彼はただの「自分勝手」なだけのキャラクターになってしまうからだ。

積極的アプローチと、その正当性

さて、ここで話を物語シリーズからめだかボックスへと戻すと、この漫画には(というかめだかボックスに限らず多くのバトル漫画には)、阿良々木くんに象徴される「積極的アプローチの代償として、キャラクターが責任を背負い込む」というモデルとは異なる論理が存在する。それは「敵を改心させることを目的とする」というものだ。
めだかの宿敵である「球磨川禊」との戦いを見てみよう。めだかによって打ちのめされた球磨川は最終的に「幸せだなあ!」と口にして負けを認める(※6)そののち球磨川はめだかのいる生徒会メンバーに副会長として加わることとなる。このような、「敵が(自らを打ちのめした)主人公に感謝する」という展開を作ること。それが「積極的アプローチ」を肯定するための、ひとつの方法となりうる。

当然のことながら「気に食わない人間をボコボコにしたい」という動機で主人公が動くことは許されない。そんなモチベーションでキャラクターが「正義」を振りかざすことはできない。しかし本音のレベルでは、我々は確かに「ムカつく敵を打ちのめしてほしい」という願望を抱いている。
この本音と建前の対立によって、「敵を徹底的に打ちのめすのは、それが相手を想った行動だから」というロジックが生まれる。敵を殺すためではなく、むしろ敵の「改心」を目的とし、これからも生き続けられるようにするためにこそ暴力を振るう。
その過程によって敵を改心させ、そして味方に引き入れる(バトル漫画ではありがちの展開だ)こと。道を踏み外した「悪者」を更生させ、新たな道を提示すること。そのための暴力ならば許される。そういう理屈である。

ところで「改心」という語からまっさきに思い出されるのは「ペルソナ5」というゲームである。
このゲームの主人公達は、特殊な力によって「悪人」の精神世界に潜入することができる。そして心の内に秘めた歪んだ欲望を「頂戴」することによって、悪人を「改心」させることができる。改心させられた人間達は、心を入れ替え自分の行ってきた悪事を素直に認め、罪を償う。
これはめだかが球磨川に対して行ったことの、さらに明確な形での実践であるといえるだろう。めだかは球磨川とのバトルを通して、球磨川に改心を「促す」。対してペルソナ5における主人公達は、悪人達の自発的な改心には期待していない。だからこそ精神世界へと潜入し歪んだ欲望の奪取を目論む。

しかしこうしてみると、この「改心」という行為は果たして「正義」と呼べるものであるだろうか。「主人公たちのやっていることは、もはや「洗脳」と同じではないのか?」という問いは残る。
作中にも主人公たちの行う「改心」について疑問を投げかけるキャラクターが存在し、彼は「法律以外の尺度で勝手に裁くのはただの私刑」であり「正義から一番遠い行い」だと「改心」のモデルを批判する(が、この論点はストーリーの流れ的に若干うやむやになってしまい、あまり重要視されることはない)
確かに「ペルソナ5」に登場する悪人は、基本的に皆かなりのクズであるので、プレイ中は主人公たちをどうしても応援したくなってしまう。ただ現実的な観点から考えてみると、「相手を改心させる」というスタンスが争いが収めることは皆無といっていいだろう。
人間が対立するとき、大抵どちらにも「言い分」はあり、傍目から見ても明らかな善悪、優劣がつかないことが多い。

「ペルソナ5」において「改心」が「正義」となるのは、悪役の主張が完全に倫理から外れているからだ。裏を返せば、そのようにあらかじめ善悪がはっきりしていなければ「改心」のモデルは成立しないということでもある。「どっちの意見も一理あるよなあ」というとき、「改心」のモデルは機能しなくなってしまう。
そうなると「相手を改心させ戦いを終わらせる」という解決策は、単に「力がある方が勝つ」と言っているに等しくなってしまうだろう。ではどうすればよいのか。

(つづく)

※1 西尾維新 暁月あきら「めだかボックス」 3巻96p 2010/集英社
※2 同 7巻55p
※3 同 7巻59p
※4 同 7巻60p
※5 他作品における「消極的アプローチ」の例として米澤穂信の「古典部シリーズ」「小市民シリーズ」が挙げられる。これらのストーリーにおける「探偵役」である折木奉太郎、小鳩常悟朗はともに「なるべく事件に関わらないようにする」というスタンスを選択する。折木においては単にそれが「面倒だから」という理由であり、小鳩におけるそれは「事件を解決する過程で、他人を傷つけた経験があるから」というものだ。ゆえに彼らは探偵役でありながらも、積極的な「事件解決」のアプローチはとらない。ストーリーの流れ的に「仕方なく」事件を解決に導くことになる。
小鳩の例が直接的で分かりやすいが、意気揚々と謎を解き、他者の秘密を暴くことを喜びとするキャラクターは「不誠実な人間」「他人の気持ちを鑑みない人間」として読者の目に映ってしまう。それを回避するために、彼らは探偵役であるにもかかわらず「事件に巻き込まれる立場」にならざるをえなくなっている。阿良々木くんは罪悪感を背負いながらも、それでもアプローチを行うが、小鳩くんはそこから降りた形となる。
※6同11巻70p 2011


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