「ぜんぶクルマが教えてくれる」巻頭言
池田直渡の『ぜんぶクルマが教えてくれる』」へようこそ。
クルマは大量生産される工業製品だが、その設計、製造には数値と官能の両面が必要だ。だとしたらその評価にも、合理的・客観性と直観的・主観性の両方がいるはずで、でも、どうも世の中の自動車評論は、スペックか情緒かのどちらかに傾きがちな気がする。膨大な人間の英知、情念、そして時間を注ぎ込んで造られるクルマは、数値と感覚の両面からしゃぶり尽くすに値するし、そこからものすごく面白い知的興奮が得られるんだよ……というあたりが「ぜんぶクルマが教えてくれる」に込めた思いである。
もっとも、こちらを見てくださっている方の多くは、ウェブ媒体の連載などで池田が書いた、自動車関連の記事に興味を持ってくださったのだと思う。だとしたら池田のこんな気持ちはとっくにご存じであろう。そう、いつものああいうコラムをこれからはここで(も)書いていく。
では、ここの連載は今まで無料で読めた商業媒体の記事と何が違うの? と疑問を持たれた方もいるかもしれない。
「媒体に原稿を書く」ことに感じた限界
答えは、「原稿そのもののテーマや質は何も変わらない」だ。「こちらは有料なのに?」と思われるだろうから、説明しておきたい。
これまでも、筆者としては媒体から原稿料が払われる仕事は例外なく商品として原稿を納品してきたつもりだ。言葉を選ばずに言えば、例えお金を払わずに読んでいたとしても、読者はお客様。昨今お客様を神様とは言わないけれど、プロとして納品するものは、作り手自らが恥じるようなものではいけない。無料でも有料でも同じことだ。
強いて違いを言うのであれば、その時、その時の話題のテーマについては、これまで複数の媒体から同じテーマで頼まれることが結構あった。そうなると媒体Aと媒体Bの両方に記事を書かなくてはならないので、ネタの全部をどちらか一方に全部使ってしまうわけにはいかない。なので情報を振り分けることになる。しかしこのnoteには、そういう遠慮が要らない。媒体AとBのどちらを優先していることにもならないからだ。自分のメディアを優先して何が悪い、と開き直れる。
noteは池田のディレクターズカット版
なのでnoteは言ってみればディレクターズカット版になる予定である。媒体には媒体のサイズがあるので、そちらはテレビ版とか劇場版のようになる。noteのスタートとともにアップされる各社決算記事もまさにディレクターズカット版であり、遠慮なくフルサイズで好きなだけ書いた。まああとは本人の体力が許すかどうかだけが、問題で、基本的に筆者としてここに書く記事がディレクターズカット版という気持ちでいる。
さて、おかげさまで各社から池田への原稿発注は驚くくらい増えており、大変ありがたいことである。これまで書き続けた記事の本数はウェブ、雑誌を合わせてもうすぐ4桁の大台に載る。
しかしそのために、媒体に書き続けることへの限界も痛切に感じるようになってきた。
媒体の事情に縛られない場所で、もっと直接、もっと自由に、読んでくれる人に自分の記事を届けたい。書くほどに、そう思うようになった。
かつて媒体は太陽であった
この原因は多分、読者と書き手の間に入る媒体が変質したことにある。
38年前、筆者が出版社に入社した頃、メディアビジネスは太陽のように眩しく輝く存在だった。しかしその面影はもはやない。煌びやかで人と活気に満ちていたトレンド生産工場は、いまやギリギリに削られた人員で、疲弊しながら、1円でも余分に儲けようとあくせくするところまで落ちぶれてしまった。
あくせくするようになった理由は、メディアビジネスがかつて見た「フリーミアム」の夢から覚めたからだと思う。この20年間、「タダで記事を読ませると、いつかは大きなリターンが返ってくる」。そういう白日夢をメディアは見ていた。
それが可能なくらい、出版社には無駄な体力があった。それはそうだ。マーケティングの世界では「ファブレス」だの「スマイルカーブ」だのと名前を付けて、最近できた考え方のように言うが、出版という仕組みは遥か昔からそのやり方で、ビジネスを行ってきたのだから。
出版社はアイディアしか出さない。あとは社員と外部とのコネクションというか繋がりだ。アイディアを固めたら、原稿はライターに、写真はフォトグラファーに、デザインはデザイナーに発注して、印刷は印刷会社に、出来上がった本は取次が運んで、売るのは書店。書店の売り上げと返品は取次が回収する。
企画力なき企画屋に意味なし
要するに、出版社というのはとことん企画屋であり、コストのかかる部分は外注してきた。そういう企画をコンテンツに仕立てられる優秀な外注をどれだけ知っているか、忙しがる相手にノリとか根性とか意地とか、そういうエモーションを原動力にして仕事が頼めるか、それが全てだった。
潤沢な利潤があったから、そこにはたくさんの編集者がいて、企画のノウハウと人脈を溜め込んでいた。だからある意味、情報商社のような仕事が成立したのだ。
しかしフリーミアムの幻想に惑わされているうちにそのマネーパワーを失った。その結果、編集部をリストラすると、属人的であったノウハウも人脈もどんどん流出する。「面白い仕事」をしようにも、そのノウハウが残っていないし、外注にその酔狂に付き合ってもらうだけだけの予算もない。
斯くして出版社はその企画力の換金手段を失ったのだ。そして、今、元に戻ろうとしている。まるで今気づいたかのごとく「そうだ。読者から購読料を取ろう」と言い出したのだ。
そして、疲弊しきったが故に、媒体が言い出した購読量の単価は結構な値段であり、これまでのタダから突然のその値付けに、多分社会全体がちょっとショックを受けている。端的に言って高い。
しかしである。本領である企画力を失い、もはや企画段階からほとんど全てをライターに丸投げしている媒体を、戦国の世を生き残ってきたライターの側はもうさほど必要としていない。それは企画力だけの話ではない。大変口はばったい話ではあるけれど、筆者が記事を書くと、媒体のビューは上がる。筆者の名前で検索して入ってきてくださる方も多い。拡散力においても、もう媒体を頼る必要があまり感じられないのだ。
有料媒体のハードルと公共性
筆者が若かりし頃、「⚪︎⚪︎誌で書いている誰それ」という具合に媒体がライターの格を保証してくれたものだが、今やそうではない。誰それの記事が読みたいから検索して、そこで辿り着く先がたまたま媒体であるに過ぎなくなっている。そうなると、筆者のようにあちこちの媒体に書いている場合、その全てが有料記事ないし月額制になってしまうと、高い購読料が嵩んで、記事を検索・追跡して読むためのハードルが高くなりすぎる。
「だったら、読者の方にお金を払っていただく先を一本化しよう」と考えた。となると、その一本化の先は媒体である必要性は全然ない。むしろ制作チームを自分で作って、そこできちんと能力のある人と一緒にコンテンツを作って、利益を分配した方がよっぽど良い。媒体社は、昔と金銭感覚が変わっていないので、これだけの情勢の変化を目の当たりにしても、払う気になるのはかつての原稿料ベースであり、稼ぎベースでの利益折半という考えにはとても応じられないからだ。
そしてもうひとつ。記事の中には公共性を担うものがある。例えば日本の屋台骨を背負う自動車産業の決算分析などは明確にそういう性質のものだ。それは無料で多くの人に読んでもらうべきだ。この1年、そう主張して交渉してきたのだが、媒体には「これは無料にすべき」、「これは有料にすべき」という判断基準はなく、基本的に全部を有料化したがる。貧すれば鈍するがそこにある。
元々編集部をさしてあてにせず、自分で主題を選んで書いてきた筆者の場合、書く内容はもちろんのことだが、どの記事を無料に、どの記事を有料に、も自分で決めたい。
という想いでこのnote版のニュースレターを立ち上げる。公共性の高い記事を無料で出し、優秀な編集者が誇りを持って制作業務ができる場を作り出し、関わる人たちがそれで霞を食うような無茶にならないために、最低週に1本、お金を払っていただくに相応しいちゃんとした記事を書く。
本当に上手くいくかどうかはやってみないとわからないが、筆者はそれをコンテンツの未来を切り開いていく作業だと思っている。
可能なら、というかちゃんとそれで食えるようになったら、そのノウハウは数が減りつつあるクリエイターのみんなに公開し、この世界でみんなの生きる道を提供したい。
お互いに無理せず楽しくやりましょう
読者の皆様におかれては、筆者の酔狂にお付き合いいただけたら幸甚である。「お金を払って読む価値があるよ」と思っていただければ光栄だし、「まあこれまで10年以上タダで読んだから、今までの分のお布施だと考えるよ」であれば大変ありがたい。「いや俺は無料の記事だけで良い」というのももちろんありだ。もちろんお気の向くままである。来るものは拒まず、去るものは追わずだ。
実はこのnote企画と合わせて、書き溜めてきた1000本近くの記事の書籍化も進めてみたいと思っている。なのでnoteのチームと併せて、書籍制作チームも立ち上げた。書籍も是非ともお楽しみにしていただきたい。
さてさて、といった次第で池田直渡の還暦(一応まだだけど)からの挑戦を刮目してご覧いただけますようお願い申し上げる。これが後で読み直した時黒歴史にならないと良いなぁ(笑)。
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