(free!)豊田会長の発言切り抜き問題とメディアビジネスの“宿命”
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「狡兎死して走狗烹らる」(こうとししてそうくにらる)
小学館のデジタル大辞泉によれば、“《「史記」越王勾践世家から》うさぎが死ぬと、猟犬も不要になり煮て食われる。敵国が滅びたあとは、軍事に尽くした功臣も不要とされて殺されることのたとえ。”とある。
社会の木鐸でいるには叩く相手が必要
さて思考実験である。新聞などのメディアは社会の木鐸とよく言われるが、真の理想社会が実現したらどうなるか? 当然メディアは要らなくなる。ショッカーが滅びれば仮面ライダーは要らない。特撮というコンテンツビジネスのサステナビリティのためには、悪が滅びてはとても困るからゲルショッカーが誕生する。
つまり、よく考えてみると、社会の木鐸としてのメディアの活躍は悪があってのもの。極端に言えば、「不正を正すこと」を強く目的に掲げる限り、構造的にメディアは悪と共依存関係にあるのだ。
特撮コンテンツビジネスでは、ショッカーが滅びた後に、より強力な悪の組織を誕生させるのは脚本家の仕事なのだが、現実の社会ではそうそう都合よく新たな巨悪は生まれてこない。あくまでも思考実験だと述べておくが、その時現実のビジネスならどうするか。
多分出口は2つある。
ひとつは正義と悪が出来レースをするケース。言ってみればクイズの正解をいきなり言わないで、進行の都合上、空気を読んで、わざと間違える系のやり方だ。強すぎる必殺技は出さない。ライダーキックもスペシウム光線も使わない。番組開始5分で水戸黄門が印籠を出したら番組は成立しない。これはもう勧善懲悪ストーリーをサステイナブルにするための例外なき宿命なのである。
「正義は必ず勝つ」のだが、決定的かつ一方的に勝たない。滅ぼしたらゲームが続かないから、手心を加えるわけだ。しかしこれは構造がオープンでプレイヤーの数が増えると難しい。出来レースを出し抜こうとするヤツがマジになると、手心構造が壊れて、正義と悪のイチャラブ構造が継続できなくなるわけだ。
競技かるた(百人一首)を思い起こせばわかるだろう。上の句の一文字で札を叩く名人同士の真剣な立ち会いは一切のお約束を許さず、それゆえド素人が見ても楽しみどころが分からない。一般的なカタルシスを楽しむエンタメとして成立しなくなる。一方、時間を自在に止めて競技者の思考を説明できるマンガや映画には格好の題材で、『ちはやふる』(末次由紀作)は大ヒットした。
もうひとつの出口は何かと言えば、「悪を作る」ことである。悪を作り出せば、正義は輝くことができるのだ。有り体に言えばマッチポンプである。
悪を作ればビジネスが回る。むろん、メディアの人間はそれを知っている。それでも人としての良識、あるいは会社の教育でそんなことはしない。ほとんどの場合は。
しかし、先週話題になった蓼科・聖光寺での豊田章男会長の発言の切り抜き問題は、まさに朝日新聞というメディアによる「悪の捏造」だと筆者は思っている。
この話は幾重にも折り重なった構造を説明しなくてはならないので、筆者が一連の取材によって得たファクトは最後にまとめて書く。ここでそれを始めると、トヨタのために言い訳をしているように聞こえるからだ。
今「トヨタの味方」と見られるリスクを想像してみる
さて、大事な余談。
もう一度思考実験だ。あなたがひとりのジャーナリストだとして、この問題を扱う時のリスクとストレスを想像してみてほしい。
今「トヨタが悪い」と書くことは、極めてリスクが低い。何しろすでにトヨタは認証不正問題で、謝罪会見を開き、豊田章男会長自身は、別件で話を聞いた時、「明確な犯人がいないと納得されないので、会見に自分が出て、わたしが自首しております」とまで覚悟を述べた。
本人が「悪」と認めたものを責め立てるのだから、ノーリスク、ノーストレスである。
しかも、ある程度鍋が煮えてきたこの状況になれば何を書いてもひとりで悪目立ちすることはない。群衆に混じって石が投げられる状況にある。強い批判を受けている今、トヨタはそう簡単に報復もできまい。よっぽど突出した悪目立ちをしない限り実質的に「叩き放題」である。
対して、この状況で「トヨタの言い分には理があるのでは」と主張するのは、世間が決めた悪に対して、弁護人を買って出る様なもので、トヨタといっしょにパブリックエネミー扱いされ、罵詈雑言を浴びることが確実だ。擁護にまわるなら無傷はあり得ない。もしあり得ると思うならば、どんなやり方があるのか是非教えてほしい。
傷つくといってもしょせんは言葉だろう、と言う人は今の時代にはさすがにいないと思うが、この手の悪意ある非難は作り手、書き手の心を深刻に蝕む。だからこちらは、ストレスフルでハイリスクな選択となる。
では書き手の立場で、そんな火中の栗を拾う理由はあるのか。ひとつは「書き手としての信用を毀損しても引き合う」というレベルの大金でももらって、辛いが単価の良い仕事として引き受けること。ただし昨今のコンプライアンスの中でそんな危うい金を配る企業があるかと言えば、まず無かろう。そしてもうひとつは、もう損得の話ではなく、事態が酷すぎてひとりのジャーナリストとして捨て置けず、やむなく「高倉健が長ドスを抱いて雪の中を行く」ような気持ちで書く、そんな心のありようだ。
論より証拠、各紙の記事を見てみよう
本題に戻る。
今回の一件、トヨタが主役であるとしたら、その対立軸にあるもうひとりの役者は朝日新聞である。取材現場には筆者もまさに同席して最初から最後まで聞いていた。トヨタ番の取材陣の顔ぶれも全部知っている。朝日新聞、読売新聞、日本経済新聞、共同通信、中部経済新聞、日刊工業新聞、日刊自動車新聞。新聞以外ではカーウォッチ、ベストカー、それに筆者を含む、3人のフリージャーナリストである。万が一忘れている人があったら申し訳ない。
ここで7月18日前後に出た各社の報道をWeb版で並べて見てみよう。
■朝日新聞
(不正に揺れるトヨタ、会長「今の日本は頑張ろうという気になれない」)
■読売新聞
(トヨタ交通安全を祈願 長野・聖光寺 豊田会長ら参列)
■日本経済新聞
(トヨタ首脳らが交通安全を祈願 原点回帰、参加者絞る)
■共同通信
(トヨタ会長が長野で安全祈願 聖光寺で夏季大法要に出席)
■中部経済新聞
(長野県の聖光寺「夏季大祭」 トヨタ会長や社長らが交通安全祈願)
■日刊工業新聞
(トヨタ会長ら、長野・聖光寺で交通安全祈願 事故ゼロへ決意新た)
■日刊自動車新聞
(トヨタグループ首脳ら参列、長野・聖光寺で交通安全祈願大法要)
■カーウォッチ
(トヨタ 豊田章男会長や佐藤恒治社長、グループ各社トップらが蓼科山聖光寺で全国交通安全祈願大法要)
■ベストカー
(「トヨタはF1に復帰するんですか?」 モリゾウさんに直撃インタビュー 聖光寺でのトヨタ交通安全祈願に密着)
見出しを見ただけでも、そして読んでいただけばお分かりの通り、朝日新聞だけが異質で同じ現場の取材とは思えない。ちょっと異様である(ベストカーも変だが、何をやっているかは後述する)。全ての媒体がトヨタと懇ろゆえに手心を加えてしまい、その中で朝日新聞だけが義憤にかられて批判的記事を書いたのだろうか?
カーウォッチの記事が最も詳しいが、聖光寺はトヨタが建立し、以後53年間にわたって、交通事故犠牲者の慰霊のために毎年7月17日と18日に夏の大祭を執り行っている。尊い犠牲の上に成立している自動車産業のあり方を忘れないように、そして犠牲者の御霊を慰め、安全に対する弛まぬ努力を続けることを誓うために、トヨタグループ18社をはじめ、販売店やサプライヤー各社のトップが一堂に会し、祈りを捧げる場である。いわばトヨタにとっての御巣鷹山である。
慰霊祭という地味なネタを読ませる“工夫”
いい話ではある。そしてこれらの記事をざっと読むと、ニュースとしては極めて地味であることが分かる。編集経験者として冷静に見れば、この見出しではまずクリックはされないと思われる。
例えばベストカーの記事では、「『トヨタはF1に復帰するんですか?』 モリゾウさんに直撃インタビュー 聖光寺でのトヨタ交通安全祈願に密着」という記事タイトルで、交通安全には触れつつも、なんとか読ませようと工夫している。
筆者も取材に行ったのでよく分かるが、聖光寺は東京からクルマでノンストップで走っても片道3時間かかる。宿泊して2日掛かりで取材して、記事のバリューは「慰霊祭」。うーん、である。
自動車産業全体にとって極めて大事なイベントではあることはもちろん理解している。広義には自動車業界で仕事をしている筆者はやはり祈りに参加するべきだろうと思う。思うが、純粋な取材ネタとしては労力比でかなり厳しいのは想像して頂けるだろう。例えば、読売は20日まで記事にしていない。慌てて書いてもどうせ大して読まれない、と思ったのだろう。
手間暇をかけて慰霊祭をストレートニュースとして書いても、どうせ読まれない記事になる。おそらく、これは参加した記者全員の共通認識である。
しかし、ここで取材の趣旨も祈りの精神も全部うっちゃって、今話題の不正の話にすり替えて「トヨタが国交省を恫喝している」という記事を書けば手間暇分の元が取れる構造になる。
確信犯(誤用だけど)だからこその配慮
そういう意味で朝日の記事はプロの手口である。以下記事冒頭部を引用解説する。
プロの書き手なら一目でわかるが、ここでは印象操作と言い逃れの余地を両立するテクニックが使われている。説明しよう。
冒頭の「大規模な認証不正に揺れる」は「トヨタ自動車の」に掛かり、「トヨタ自動車の」は「豊田章男会長」に掛かっている。続けて読めば「不正問題で騒ぐならトヨタは日本から出て行くぞ、という豊田会長の恫喝」という印象を与える。
そしてもしトヨタ側から「そんなことは言っていない」と抗議されたら、「これは『大規模な認証不正に揺れるトヨタ自動車の』『豊田章男会長』という、2つの文節なのです。御社が『認証不正で揺れている』のは事実ですよね?」と言い逃れができる。
繋がっているように見えて、切れているようにも読める。そして、新聞記事をここまで熟読する人はそれほど多くない。これは最初から、突っ込まれるリスクを考えて、意図的に仕立てられた構造である。
「わたしが自首しております」
一連の認証不正を全部取材していれば分かるが、豊田会長の発言に「不正問題で騒ぐなら出ていくぞ」というニュアンスが含まれたことはない。先に書いた通り、すでに謝罪会見を開き、長時間の質疑応答にも答え、先に書いた通り、別件で話を聞いた時、「明確な犯人がいないと納得されないので、会見に自分が出て、わたしが自首しております」とまで覚悟を述べた。
一方で、トヨタ車のユーザーの「衝突の認証実験で不正があったということは、このクルマに乗っていたら危ないのではないか」という不安に対して、日本の1100kgの台車を用いるべき後突実験でアメリカ基準の1800kg台車を用いて、より厳しい条件でテストされているので、安全に対して不安に感じる必要はないとメッセージを発した。この部分は、国交省に対する抗弁ではなく、ユーザーへの説明である。もちろん先に述べた通り、規定の1100kg台車を用いなかったことについては、認証試験としては不正であることを認めて謝罪もしている(認証問題についての詳しい記事はグーネットに書いた。ご興味あればご一読願いたい)。
ただ、この話を聞いた自動車専門メディアなどが「だったらそもそも基準がおかしいのではないか」と騒いだことで、まるでトヨタが不正を否認しているような雰囲気になってしまった。これに関しては筆者も声を上げた側であり、話を拗らせてしまったことを反省している。
実際、国土交通省の様子を調べてみると、国民からも政治家からも「トヨタいじめじゃないか」という批判が各所から殺到しているらしい。トヨタも事を荒立てたくないが、国交省だって一刻も早い沈静化を願っているのは同じだ。
筆者の見解としては、そこで朝日が再び火に油を注いだことは罪が重い。実はこの聖光寺でのぶら下がり会見は、ほとんどが真面目な安全の話だった。筆者も提案として「ウーブンシティが出来上がったら、ここにいる新聞記者も含めて、ぜひスマホ運転を体験させて欲しい。右左折の指示をLINEで送って、返事をしながら導かれたルートを走る。そういうやり方なら身をもって危険を体感できる。実体験に基づいた危険性のレポートなら記事としてバリューがある。公道では絶対に試せないことなのでトヨタで場所を用意してくれることは大きな意味があるのではないか」と発言した。これは聖光寺の住職の訓話の中で「スマホ運転で事故が増えている」とお話しされたことを受けてのものだ。
無理な攻撃をしなくてもバリューは生み出せる
提案に関しては、豊田会長のみならず、新聞記者たちからも多くの賛同をもらった。筆者の意図を説明すれば、当たり前の安全のレクチャーでは記事として読まれない。あくまで交通安全の話を逸脱しない範囲で、それを読ませるためにどうするか、例えばこういう危険な状況を体験した生の声なら説得力があるよね、という話である。真っすぐ安全の話を扱いながら、どうやって読者の興味を惹くかという投げかけをしたつもりだ。
他にも、今年事故が増えた理由であるとか、自動運転による安全の向上など、慰霊の場に相応しい活発な質疑応答の最後で、共同通信の記者が認証不正に関する質問をした。ついでに言えば朝日の記者は終始写真を撮っていただけで一問も質問していない。
この後のやりとりはベストカーの記事が詳しいので以下に抜き出したい。
「誰に向けて」を捻じ曲げた切り取りが「適切」か?
さて、某新聞社系出版社OBの、あるフリーランスジャーナリストの、Xへのポストが大炎上中である。
彼は連続するポストで、一社だけ異質な朝日の切り取りを「適切な要約」であり、トヨタがメディアを支配しコントロールしようとしているのだと主張するのだが、そりゃないだろう。「誰に向けた発言か」が全然違う。目の前のメディア陣に対しての発言を、誤読を誘う書き方で国交省に向けた、あるいは日本の社会へ向けた発言かの様に捻じ曲げるのはもはや捏造である。しかも先に述べた通り、さり気なく文意を切って、改竄と指摘された時の対策までやってある。
例えば傷害事件の被害者に向けて「同情を禁じ得ません」と言ったことを加害者に向けたことにされたら、とんでもない失言になる。それは文字数調整を前提とした、あるいはわかりやすくするための技術としての切り抜き(トリミング)の範囲を逸脱している。発言本来の意味を損なう改変はトリミングではない。
今回の「日本を出て行く」という発言は、メディアが話を捻じ曲げているとそういう大変なことになる、という話であって、国交省や日本社会に向けた発言ではない。そこを捻じ曲げた記事を事例にして「記者の仕事は『ニュースバリューがある部分を見つけて切り取る』こと」だと言うのは新聞記者全体、あるいはメディア全体に対する冒涜である。全ての記者が、物書きが、「お前と一緒にするな!」と激怒するべき問題だ。
そしてそこにいた記者たちのほとんどは、豊田会長の説明に納得したからこそ上に並べたような記事になったわけだ。リンクを見れば分かるように、不正の話題を振った共同通信の記者もまた、記事中で不正の話に触れることはなかった。
件の出版社OBはこれを「朝日が正しい」と主張し、ベストカーに対しては、「トヨタ自動車広報部音羽支部と名乗れ」と言うのだが、とすれば、朝日以外の全ての新聞記者が、「不穏な発言を見逃すことでトヨタに迎合した」「トヨタ広報部の傀儡」だとでも言うのだろうか。彼の古巣の親会社にあたる新聞社も含まれているから皮肉である。一体どこで仕事を習ったのやら。
書かずにいられないので書きました
筆者は、例え自分が批判の矢に晒されようとも、その場で取材し、自分が見聞きして真実だと信じることを書き続ける。社会の木鐸でありたいがために悪を作り出すことではなく、見たこと聞いたことをわかりやすく伝えることが仕事だからだ。繰り返し主張するが、トヨタの場合は「批判者」の側に身を置くほうが、実は楽なのだ。筆者はこれを書いたことで、金をもらっただの広報の支部だのという批判をまた受けるだろう。それを覚悟で書いている。
どう思ってもその人の自由だが、トヨタにしっぽを振るためではない。自分で見た通りのことがねじ曲がって報じられていることに腹が立つからだ。無責任で無関係な人たちからどう見られるかより、そこに行って見て聞いたファクトを伝えることの方が重要だと思うし、自分の商売の都合で悪を作り出したり、批判を受けたくない保身が優先するくらいならこの仕事辞めちまえと思う。
もちろん誰だってそうだが、筆者の能力には限界がある。自分が正しいと信じることが絶対に正しいとは言えない。間違うこともあるだろうが、神ならぬ身としてはそれは止むを得ない。今自分が信じるファクトをフラットに伝えるしか自分にできることはないのだから。
長ドスを胸に雪の道を行く健さんは、内心「バカだなあ、俺……」と思っていたはずである。自分も、どれほどバカなことをしているかの自覚はある。
それでも、書かずにいられないことが、世の中にはあるのだ。
※最後に。本記事はnoteのメンバーシップ会員に向けた書いたもので、本来はお金を払ってくださった会員の方限定にすべきものだが、申し訳ない。筆者の願いとしてどうしても多くの人に読んでもらいたい。なので分類は有料にしてあるが、「ここから先は有料」という規制を掛けていない。有料会員の皆様にはどうかご寛恕のほどをお願いしたい。
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