見出し画像

中野ブロードウェイで考える。自動運転は「何をやらないか」が大事

 筆者は長らく「内燃機関は滅びない」「EV(BEV、ここではハイブリッドやPHEVを含まない、純粋な電気自動車を指す)、はそれなりに普及するが、オールEVの世の中は当分来ない」と言い続けてきた。言い出し始めて7年が経過している。

 今年(2024年)の3月11日にITmedia ビジネスオンラインに同様の趣旨のことを書いたので、ちょっと引用しておく。

 こうなるのはずっと前から分かっていたことで、ようやく世間が悪夢から覚めたということになるだろう。「後出しで言うな」という人が出てきそうなので、本連載の過去記事を遡(さかのぼ)ってみた。まあ本人もいったい何時からマルチパスウェイの記事を書き始めたのかよく覚えていないので、一度おさらいしてみたかったのもある。

 BEVシフトが限定的であることを最初に明確に書いたのは7年前、2017年5月の「日本車はガラケーと同じ末路をたどるのか?」だ。

 そしてエンジンはなくならないという主張が同じ年の7月にある。「電動化に向かう時代のエンジン技術」という記事だ。

 現在の流れに至る原因が欧州の戦略的失敗にあることを書いたのが、同年8月「内燃機関の全廃は欧州の責任逃れだ!」。

 トヨタ出遅れ説に対する反論も8月だ。ここでは明確にマルチパスウェイを提案している。「トヨタはEV開発に出遅れたのか?」。

 次いで中国製EVに日本が席巻されることはない、という論を展開したのが18年1月になる。「中国製EVに日本市場は席巻されるのか?」。

 欧州市場が中国メーカーに侵略を受け、特にドイツメーカーが中国に食われるリスクに警鐘を鳴らした記事を出したのが19年3月である。「日本車の未来を考える」。

 まあ、こうやって自信を持って過去記事のリンクを挙げられるのも、今読み返して、全ての記事が予想を外していないからだ。

ITmedia ビジネスオンライン「EV減速の中でもっとも注意すべき政策

 せっかくだからもうひとつ付け足しておこう。こちら、日経ビジネス電子版に2021年3月に書いた「欧州のEV戦略は『ブラック魔王』で読み解ける」もきっと面白く読んでもらえると思う。

 7年前どころか、書籍『EV(電気自動車)推進の罠』を上梓した3年前でも逆風は強烈で、「EVシフト論は盛り過ぎが甚だしい」というだけのことでも口にするのは大変だった。記事のコメント欄やSNSでは「年寄りには未来が何も見えていない」とか「事ここに及んでこの危機感のなさに呆れる」とか「自動車評論家なんてオールドエコノミーの代弁者だ」とか「5年後には恥ずかしくていられないでしょう」とかまあ言いたい放題にバッシングされる中で、それでも正しいことは正しいと反論を続けてきた。

 今では筆者が書いていることはまるでずっと前から当たり前だったかの様に扱われている。まさに時代というか風向きがすっかり変わったのだが、かつて多数派に立って驕り高ぶった連中の、あの居丈高な物言いはもちろん忘れていない。

 言いたい放題だったヤツバラの書き込みは、「恥ずかしい発言博物館」みたいなまとめページを作って永久展示してやりたい気持ちがある。まあ流石にあまりに生産性がないからやらないけれど、気持ち的には誰かにお金を払ってやってもらいたいくらいである。

 しかしながら、そんなエネルギーがあるくらいならば、もっともっと世に知らしめていかなくてはならない新しいことを記事にするために使いたい。先が見えない意固地な連中ではなく、本当に真剣に未来を考える人たちに、少しでもヒントとして使ってもらいたいからだ。

「自動運転」の意味不明な盛り上がり

 では今は、池田にこうした心配の種はないのかと言えば、当時のEVシフト並みに気になっている話題が大きく2つある。

 ひとつは自動運転。それも「あと数年で自動運転の時代になる」というガバガバな考察をする人が未だにいるのは本当に意味がわからない。

 もうひとつは「SDV(Software Defined Vehicl)が新たなゲームチェンジャーだ」という話。こっちはやはりITmedia ビジネスオンラインで「SDVで『ニッポン出遅れ』論が意味すること」として記事化してある。いずれ深掘りするだろうがとりあえず一回は書いたので、ひとまずはおく。

 なので今回は自動運転の話である。というか枕だけでこの長さはどうなのよ?と自分でも思うが、こういう「未来はこれで確定」の予言系は、おんなじ構造が繰り返されていることをどうしても言っておきかったのだ。

 さて、自動運転についての筆者のスタンスをまず明らかにしておこう。筆者は「自動運転なんて夢のまた夢で、全く実現性がない」とは思っていない。問題は自動運転の定義の問題である。

 世の中で言われている「自動運転」は、「寝ていても、酒を飲んでも、なんなら免許がなくても、目的地の入力さえすればあとは勝手にクルマが運んでくれる」というイメージではないか。そんなことはこの先20年は無理だろう。

 5月の末にも経済産業省から「ちょっとご意見を伺いたい」と呼び出されて、自動運転とSDVについての筆者の見解を伝えてきた。経産省は「いま日本が出遅れている自動運転とSDVをなんとかせよ」と、上からお達しを受けていて、それをなんとかしなければならなくなっている。特に「中国にやられる」という危機感を強く持っているようだ。

 なので筆者は言った。「自動運転を実用化するのは簡単です」と。

 「各メーカーごとに販売台数何台ごとに年間何人まで死亡事故を起こしても、国が全責任を負うので、自動運転を実現せよ、と通達を出せば、日本メーカーの技術力なら今すぐにでもできますよ」

権威主義国家とまともに競争するのは愚の骨頂

 このところ何度か書いているからお察しの方もおられるだろうが、権威主義国家と国民主権国家との対立の最大の対立軸は「コンプライアンスの重さ」で、言い方を変えれば「当局がルールを破ることで負うリスクの差」である。

 例えば、権威主義国家では「力による現状変更」、平たく言えば軍事力による他国領土の強奪を正当化できる。ロシアとウクライナの件でもおわかりだろう。

 権威主義国家では牽強付会な理由づけで国家のルール違反を正当化してしまうが、国民主権国家では、そんなめちゃくちゃなコンプライアンスの欠如は看過されない。決断者や実行者は当然罪に問われるし、地位を保つことは不可能である。

 国民主権国家では重大なコンプライアンス違反になるやり方を過去10年以上にわたって、経済の世界で押し通して発展を遂げてきたのが中国である。

 これによって中国は悪評を浴びる一方で「果断な決定とスピーディーな実行」に対しての憧れがそれを上回る勢いで世界に満ちた。

 アメリカにせよ日本にせよ、民主的手法を大事にする国では、何をしようとしても必ず反対の声が上がる。それを慎重に調整していけば、正しいとわかっていてもできないことは多いし、実行に移せてもタイミングは遅れる。民主主義では「一方的に決められない」ことは多々あり、それに対する苛立ちが、権威主義国家的な手法を肯定する気持ちを生むわけだ。

 なので、極めて単純化した言い方になるが、自動運転のために「人が死んでも構わない」国と、「人が死んだら社会を揺るがす大スキャンダルになる」国は、イコールコンディションではどうやっても戦えない。これはもちろんクルマの分野に限った話ではない。医療の世界でも、新薬の開発を行う製薬会社や外科手術の先端にいる医師から、同様の話を聞く。

ここから先は

3,936字 / 1画像

オリジナル記事たっぷり読み放題プラン

¥1,100 / 月
初月無料
このメンバーシップの詳細

この記事が気に入ったらチップで応援してみませんか?