「言葉」で世界を切り拓く(タガログ語 翻訳・通訳者 林田マリトニさん:その5)
子育て、不動産手続き、夫の障害認定の申請を
すべて自分で
日本語習得の話に戻りますが、裁判の仕事以外で日本語が上達したきっかけがもうひとつありました。
夫が忙しく、私が日本語がわからないのに家のことを全部やらなければいけなかったことです。
最初の1回目以外はビザの更新も全部ひとりでやったんです。
子どもの学校のことも、幼稚園などの手続きもすべて自分でしました。
夫は時間がなく、いつも不在だったからです。
子どもたちが小学生のときも、運動会には1度しか来なかったんです。
息子の高校の卒業式も、大学の入学式も来られず、
全部私に任せきりでした。
わからないことも多かったですが、「私が成長しなくちゃいけない!」という感じがありました。
他の家庭では、全部パートナーがやってあげているという印象を受けます。うちは違いました。
家の購入もすべて私ひとりでやったんですよ!
わからないからと諦めれば何もできません。
甘えずにひとりで頑張ったことも日本語上達につながったと思います。
他の家庭を見ていると、パートナーに頼んでばかりだと何もわからないままと感じます。
これまで日本で2回引っ越しをしました。
水道を止めて、引っ越し先で開栓してもらうことも最初は知りませんでした。
夫が何もしないおかげで、学ぶことができました。
するしかないという状況なので、何でもしました。
日本人は優しいので、わからなくても説明してくれます。
言葉がわからない人に対してここまでの優しさはないと思います。
だからここまでやってこられたし、自分の成長にもつながったと思います。
ある日、夫が倒れて、身体障害者になりました。
わからないことばかりでしたが、自分で調べ、自分で役所に行って聞くしかありませんでした。
例えば、障害者手帳がもらえる(障害認定日)まで1年半かかると知り、なぜそんなにかかるのか聞きました。
治る見込みがあるか確認するため、1年半経過を見なければいけないと言われたんです。
何をしても治らないのにそれはおかしいと思いました。
お医者さんと、マヒはもう治る見込みがないと話をして、結局半年で受けとることができたんです。
そのあとすぐに障害年金を申し込みました。
書類の山がすごくて、毎晩広げて格闘しました。
経緯も日本語で書かなくてはなりませんでした。
しかも、私の苦手な手書きでした。
私にとっては外国語ですし、とても苦労しましたが頑張りました。
「私がするしかない」という強い意志があるからできたんです。
(後記)
言葉がわからないハンデは、生活の根幹を左右する重要な問題です。
マリトニさんも日本語の壁に直面し、前向きに乗り越えて歩んでこられたことが、このインタビューからわかります。
「必要ならやるしかない!」という切羽詰まった状況を受け入れて、
自分のエネルギーに変えてしまう力。
フィリピン人コミュニティの人たち、学校の同僚や教え子、国や行政機関、いろいろな立場の人たちから頼られ、信頼されるのも納得です。
今も「生き抜く力」をアップデートし続けているマリトニさんに、ただただ脱帽です。
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