北ベトナム統治からの逃避(ベトナム語 翻訳・通訳者 ハー・ティ・タン・ガさん:その3)
ベトナム戦争終結。そして北ベトナムの統治が始まった
戦争が終わって、ベトナムが統一された後、高校受験がありました。
父はもともと北部出身で、南北分断の前に南へ逃げてきた人です。
北部から逃げてきて、カトリック教徒で、商売をしている家族という3つの要素が履歴書にあると、公立の学校はどこも受験できません。
私立学校にしか行けないけれどお金がかかるので、子どもが多い家族としては大変で、しばらくは通ったものの全員、学校をやめてしまいました。
上のふたりはすぐ結婚し、私と兄は家業を手伝いました。
父は笠、むしろや竹製品の問屋の商売をして、かなり儲かっていたので9人きょうだいの子どもを育てられました。
ベトナム戦争中は特に、むしろが飛ぶように売れました。
お棺を買うお金がない人は2枚組のむしろを買って、亡骸をくるんで埋葬していたからです。
1980年に兄の亡命が成功して、私も国外に送り出そうということになりました。
当時のベトナムは話をするにも自由がなく、教会にも学校にも行けないし、商売をしていたらある日突然、財産を没収されることもある。
3回ほど、お金の交換(通貨切替)もありました。
今の日本なら古いお金を銀行に戻して新しい種類のお金に替えるだけだろうけれど、これは違う。
お金を交換するとなると、誰も家の外に一歩も出なくなります。
スピーカーが町のどこにでも設置されていて、そこから「家の中にいよう」と放送があるので、みんな洗脳されるんです。
家にいると担当の人が来て「交換するから、持っているお金を全部出して」と言われ、言われたとおりに出すと「あなたは5人家族だから、2万5千ドン」となって、あとは残らず没収される。
電話があれば「こんな大変なことが起きた」と知り合いに教えられるのに、それもできない。
1回目はほぼ全部の財産を没収されました。
2回目も来るだろうというので、父はお金を家に置く代わりに、ダイヤモンドや貴金属を買って隠すようになりました。
2回目のとき、父が手元にあったお金だけを出すと、やはり2万5千ドンにしかならなかった。
2回目からはみんなが賢くなったから、政府もあまり収穫がなかったと思います。
たまたまお金を持っていたら、ただで渡すのは悔しいので家の裏で燃やしたり、川に捨てたりする人もいました。
こういう状況では住みたくても住めないし、子どもには将来がないので国外へ行きなさいということで、父は亡命させてくれました。
父から亡命しなさいと言われたとき、抵抗感は全然なかったです。
まだその年齢やその雰囲気では抵抗もできず、親の言うままだったと思う。
切迫した状況下、家族を救った父の才覚
亡命のため、漁船に乗りました。
お金を儲けるだけが目的の船には、父は自分の子を絶対に乗せなかった。
まず自分と自分の家族が国外へ出るために船を出す船主を見つけて「うちの子も亡命させたいけれど、お金がないから一緒に乗せてほしい」と交渉します。
当時は1人あたり50グラムの米やミルクのような食品でもクーポンがないと買えず、闇市場ばかりで、物価がものすごく高かった。
亡命するには、船を整備するにも、ガソリンや米を買うにも大変お金がかかるところを、船主に先払いして準備してもらいます。
それでも足りない分は、船主から父に「あと何人か探して」と連絡があります。
船主に渡すのが1人につき200万ドンだとすると、父は亡命したい人から250万ドンを受け取り、50万ドンを手数料にもらう。
それで私たちきょうだいは、ほとんどただで船に乗れました。
よく「ついていたね」と言われるけれど、運ではなくて父の才覚があったから成功したんです。
もし船主自身やその家族が船に乗るなら、船主もできる限り家族を守ろうとするから行動に影響します。
船主が一緒に行かないときは、100人、500人と人を集めて船に乗せても、後はいいかげんに放っておいて、死んでも関係ないとなりかねない。
父はそこに目を付けました。
だから私たちきょうだいの亡命は3回ともうまくいって、海賊にも会わず、命も落とさなかったけれど、ひどい人は十何回やってみても国外へ行けなかった。
だから父は、本当にすごいです。
問屋の商売をしていたから人間関係に幅があったし、信頼もあった。
いろいろ考えていたんですね。
F:ガさんが乗った船には、どのぐらい人が一緒にいましたか。
52人ぐらいしかいなかった。
船主の家族が30人ほどで、あとはお金を払って乗った人たち。
食べ物もあって、無事に亡命できました。
海賊や台風の危険はあったけれど、船主は自分の家族を守りたいから安全に気を付けていたし、父からは亡命前に、髪の毛を切られて男の恰好をさせられました。
準備してもらった荷物は、砂糖とレモンを煮詰めて風邪薬の瓶に入れたものが私に1本、兄に1本。
私には24金の指輪1本も渡されました。
服は着替えが1着。たったこれだけです。
食べ物がなくなっても、ちょっと口に入れるものがあれば生き延びられるだろう。指輪は、海賊が来たときに何もなければ殺されるから「これで勘弁して」と渡すため。父は父なりに考えて、子どもを守ったのだと思います。
出発前にまず、父が私と兄を一度ホーチミンに行かせて、そこで「悪い友だちに誘われて、船に乗って国外に行くことになった」と家に手紙を書いて出させました。
それからベンチェに戻ると、渡し船のような小さな船に乗り、大きな船に乗り換えます。大きいといっても、長さ7メートル、幅は2~3メートルぐらい。
それでもまだ、50人が乗っても足を伸ばして寝られる余裕はありました。
夜に出発して3日目あたりに、フィリピン籍のミンダナオの船が通りかかって拾われた。貨物船だったのかな。
荷物を積み下ろししながら、3週間ほどかけて日本まで送ってくれました。
当時、難民は行き先で降ろさないといけない決まりだったけれど、たぶん日本と「救助したが、日本で降ろしていいか」とやりとりしてくれたのでしょう。
F:わざわざホーチミンから手紙を書いたのは、ガさんたちが勝手に亡命したことにして、家族が弾圧されないようにするためですか。
そう。父がそこまで考えていました。
もし私たちが亡命できなかったら手紙は要らないけれど、無事に亡命できたら、あとで役所に持っていって「うちの子たちが行ってしまった」と言えば弾圧がなかった。
父は賢い人でした。
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