ファブリシオ・タバレス・コウチーニョ

1985年生まれ。ブラジル生まれ日本育ち。Jリーグで通訳をさせていただいてます。とりあず読んでくださいませ!

ファブリシオ・タバレス・コウチーニョ

1985年生まれ。ブラジル生まれ日本育ち。Jリーグで通訳をさせていただいてます。とりあず読んでくださいませ!

最近の記事

そして入団テスト

周りを見渡すとざーっと200人はいたと思う。 みんな目をぎらつかせていた記憶がある。結果から言うと合格した3人の中に選ばれた。 この章では、この入団テストから得た経験を書いていきたい。 ブラジルでは高校サッカーたるものは無く、ましてや大学サッカーもない。部活制度がないのだ。 サッカー選手になる夢を叶える為には最低でもどこかのトップチームがあるクラブのユースに所属していないといけない。 ジュニアユース年代から、チーム内でもセレクションがあり(頻度は分からない日本よりは多い)

    • ブラジルでは日本人。

      そう。私はブラジルでは日本人扱い。 私みたいな経験をしているブラジル人は沢山いると思う。 逆もある。長い海外生活を経て日本へ帰ってきた日本人も最初は“お前、なんかガイジンぽくなったなぁ”やら“なんか違う人みたぁい”と言われる。 見た目が外国人なのに、心が日本人というのがどうも珍しいみたい。当たり前やん。て言われればそこまでだが 当時は、いわば動物園の檻の中にいる動物になったような感覚。 しぐさ一つ一つ観察される。 初めて会った人にも、「ん?こいつなんか違うぞ?」て顔もさ

      • 本気だった。

        治療をしにブラジルへ。 初めての1人での“海外”。 7歳以来のブラジル。 今回はサッカー選手になる為の第一歩。骨折した足で飛行機でブラジルの土地に降りたが、激痛よりアドレナリンが走った。 何故か何かも新鮮。 ん?。 これがカルチャーショック? 違う! 武者震い。 俺が生まれた土地だ。 これは、20年前の景色を思い出しながら書いてる。 過去は美化される。 と、よく言うが、今でも新鮮に覚えてる。 10年以上ぶりに“心は日本人”として帰国した私にとっては何もかも新鮮だったが、哀愁

        • “とりあえず”から“本気”

          前回のあらすじ。 とりあえずフットサルをして。骨折。 最初は何んでもないと思って普通に日々を送っていたが、一歩を踏み出す度に激痛と冷や汗が… 「うーん。第5中足骨折ですね。いわゆる疲労骨折。はい。」 『…… どうすれば治りますか?』 「手術が必要になります。骨と骨の間にボルトを…埋め込む…ジョイントをしなくてはいけません」 『……』はっきり言ってその後なんと言って病院を出たかは覚えてない。 ただ、激痛に耐えながら電車に乗り。そう言えばーと 手術代の事が頭をよぎり、心

          話を戻すと…

          全国高校サッカー選手権群馬県予選準決勝。 VS高崎経済大学附属高校。 負け。 そして引退。 内容は全く覚えていない。 1つだけ覚えているのは「あんなに走ったのになんで負けんだよ!!!!?」って雨の中叫んだ事。 そこで気づいたのかもしれない、これまでの自信が過信だったって事を… プライドを捨てたハズが実は全く捨てきれてなかった。 もっと謙虚になるべきだったと今は思う。 こんな実績がない俺がプロサッカー選手になる為にはどうしたらいいんだろうと考えながら、とりあえず大学へ。 とり

          苦しい時こそ笑顔。

          『ユダヤ人の教え』という本を久々に手に取る機会が自粛期間中にあった。 色んな素晴らしい事、ていうか考え方があった。 〝ビジネスマンたるもの、レジの近くで昼飯を食べろ〟その訳としては、レジの近くご飯を食べる事によって他のビジネスマンより早く店を出て競争に勝てるから。 だそうだ。こんな調子の考え方が綴られていた。 その中でも 〝苦しい時こそ笑顔になりなさい〟に目が止まった。心得としては、相手に隙を見せるな。 なるほど。確かに。 今年はシワがかなり増えた。 多少のストレスのせ

          挫折を乗り越えるからこそ

          いよいよ高校に入ってからは、ここでは語りきれない事を経験しました。理不尽に殴られたり、理不尽に走らせられたり… 恐らく多くの皆様が経験をしてきた事だと思います。 けど、私はまさにこの環境を望んで進学をしました。本能的に自分から〝挫折〟を選んだのかもしれません。 今までの経験で外国人が日本で強くなる為には〝挫折〟が必要だと分かっていたからなのでしょう。 いくら長く日本に住んでいようが、敬語を使える事が出来ても私達は外国人です。それは今現在でもそうです。 『俺、外人だから…』『

          挫折を乗り越え①

          人生は挫折の繰り返しです。 ただ、その挫折体験は早ければ早い方がいいと思う。 私。中学校では中3で中1の試合に出るレベルでした。 これってある意味凄い事で、要は『来年、高校生』になるヤツが『去年まで小学生』だった人達と同じレベルの試合にでる って事です。 プライドがズタズタです。 いよいよ進学先の高校を決める時期になった時。担任からみんなの前で『ファブは常磐高校に行っても無理だよ!』と言われました。確かその日は、志望の高校を紙に記入をして皆んなが先生にその紙を渡す日だっ

          挫折!  写真は大好きな南中組

          なんとなくこうして、昔の思い出を思い出しながら書いていると、自分は人と違う経験をしてきたなあと感じる。そこには必ずサッカーが付きまとう。 小学校から中学生へ。私が入学した南中学校は当時、2つの学校から合併していました。沢野小学校組と太田南小組。我ら沢野小組はどちらかというと野生児で太田南小組は優等生。しかし、サッカーになると話が違う。我らがいた沢小にはサッカーチームがなく、それぞれがフットサルや自分達が発起人となって作ったサッカーチームで活動していました。自分達で作ったサッ

          挫折!  写真は大好きな南中組

          忘れられない。

          飛び込んできたのは、、カシマスタジアム。まだ改築される前のカシマスタジアム どこへ行くのか全く聞かされていなかったので、目をパチクリ見開いてずーっっとそのスタジアムを眺めていました。1997年12月13日Jリーグチャンピオンシップ第2戦。鹿島アントラーズVSジュビロ磐田。 ジーコやアルシンドが、来日した頃がちょうど日本への出稼ぎが増え始めた時期で、その後レオナルド、ジョルジーニョの現役ブラジル代表やブラジルで有名だったマジーニョやビスマルクが鹿島アントラーズへ。ジュビロ磐

          後に大事な出会いに“出会う”。

          1年程経った頃でしょうか、隣の太田市へ引っ越し。ちょうどその頃大泉に、どうも倉庫を改造したフットサル場ができるらしいぞ と噂が飛び交っていました。“伝説のチーム“マラカナFCから一期生の僕たちは退団していましたし、幼馴染の多くは大泉に、私は太田へ行ってしまったので離れ離れになってしまいました。しかし、“噂のフットサル場”がオープンをすると、なんと皆がそこにいるのでわーああああありませんか!!笑 そのフットサル場には、私たち幼馴染組を始め、当然我々より年上のお兄さんやサッカーの

          後に大事な出会いに“出会う”。

          面白い現象。

          出稼ぎの子供達で結成された少年団、今は無き『マラカナF.C』。 全く練習をせずに、紅白戦だけやってボロ勝ちをしてしまう我々の強さが、“鶴舞う形の群馬県”の心臓部まで噂が広まった頃、日本の少年団がよく我らの“雑草スタジアム”に足を運んでくれる様になりました。そこで面白い現象が起こるのです。 夏休みの時に行った練習試合で、それは起きました。日本人チームの少年団チームの保護者達は、おにぎりやキュウリの浅漬けを用意。群馬県の夏はめちゃくちゃ暑い。今なら夏はさっぱりをしたもの食べた

          自己紹介はもういいよね?笑 写真は右が私左が弟。

          前回グスタボ君の紹介をしましたが、実は彼、今私が所属しているジェフユナイテッド市原・千葉で通訳もしていました。これも何かの運命というか偶然だなぁと。 福島から群馬へ引っ越しの話を一発目で語りましたが、今思うと、この“大移動”が私の人生を変える一つ目のターニングポイントになったと思っています。 Jリーグにはおよそ200人近くの通訳者がいます。通訳会というグループLINE有りますがそこだけで120人くらいいます。その120人の内8人が幼馴染です。あ。8人のうちの1人は弟です。

          自己紹介はもういいよね?笑 写真は右が私左が弟。

          自己紹介❷ 〜運命〜

          さてはて、前回の最後で語った『運命的な出会い』に触れたいと思います。 引っ越し先の小学校で、放送室から私の東北訛りを学童のみんなに“披露”をしてい時の事です。先生から呼び出しをされました。『あ〜訛りを注意されるんだろうな〜』と心の中で思いながら職員室のドアをガラガラと開けると、ブラジルから来た外国人の転校生がちょこんと座っていました。もちろん当時の彼は日本語を話せる訳もなく。 『ファブリシオ君!明日から転校をしてくるグスタボ君だ!同じ学年だ!日本語が分からないから、ちょっ

          自己紹介❶

          初めまして!皆様に“お会い”出来て光栄です。 ブラジル生まれ日本育ちです。このフレーズというか、自己紹介の仕方ってなんか普通になりつつありますよね。なので、私は『ブラジル生まれ群馬育ち、訛っている奴はだいだい友達』でやってます。Zeebraが好きです。はい。 7歳の時に来日。福島県須賀川市に3年間住んだ後、ナビのない赤くてボロいミラに家族4人で乗り込んで群馬へ引っ越し。お父さんは日本語を喋れる訳もなく、まして漢字も読めないので、当時10歳の私が社会の教科書の一番最後のペー