「正しさの蛸壺」
理不尽の蛸壺もありますが、正しさ(正義)の蛸壺もあるわけです。まあ、きっと、人は常に隠れる場所を探す蛸や貝殻を探すヤドカリと同じ習性を持っているのでしょう。
正しさの蛸壺
正しさの蛸壺のポイントは、自分は正しいという立場に立っていることです、そして正しさには、必ず前提条件があり、あくまでもある前提条件下での正しさでしかないという理解さえあれば、蛸壺に嵌まることはないのですが、その前提条件が疑う余地のないものとして消えてしまう事が往々にしてあり、消えた時に蛸壺に嵌まるんです。
そして厄介なのは、前提条件関係なくそもそも間違った正しさ、それは時に理不尽の蛸壺だったりする事が結構ある事です。
迷惑な正義
安全地帯からの投石
正しさの蛸壺の中でも、最も良くないのは、自分自身を完全に棚上げし、しかも隠れて(匿名で)集団リンチのメンバーになる事でしょう。ただの憂さ晴らしであり、無責任極まりない忌むべき行為です。
自警団
もう一つ代表的なのが、コロナ禍に現れた自粛警察やマスク警察でしょう。事実も現実も、当然真実も見えなくなり、ただただ自己満足のために自警団的行為を繰り返す。
いわゆるクレーマーです。
説教強盗
そして、最も典型的なのが、別の言葉で言うとモラハラパワハラに該当する行為で、自分が正しい前提に立って激しいマウントストロークを繰り出してやりこめて自己満足を得る行為で、相手にとっては、ただの苦痛でしかない時間であり、仮に価値ある内容であっても、決してその価値が伝わる事はなく、相手に苦痛を与えて自己満足を得る収奪行為です。まさに説教強盗という言葉に相応しいと思います。
正しさは常に仮説
前提条件次第
迷惑な正義はすぐにでもやめてもらわないといけませんが、前提条件が正しいと言える限りは、正しさは存在できますが、往々にして前提条件は正しいと言い切れないケースが多いものです。
「国は借金まみれだ。借金を返すために借金をしている酷い財政状態だ。破綻寸前だ。国の借金は国民の借金だ。」
などという話しを財務省に言われてマスコミが垂れ流していますが、「国の財政と一般家庭の家計が同一である」を前提条件にした場合には正しいですが、国の赤字は、国民の黒字なので、同じに考えることは出来ません。つまり前提条件が間違っているわけです。
同じようなことが身近に沢山あるわけです。そして、前提条件が一時的に正しくても、環境は変化していくので、問いへの結論も変化します。
つまり、正しさは常に仮説でしかないという立場でいることをお勧めしたいです。
自分自身も変わる
私は、親や教師など周囲の大人から皆と仲良くしないといけないと教わり、ずっと正しいと思ってきました。懸命に皆と仲良くしようとしてきました。
しかし、人生の後半戦に入ってわかったことは、若い時には、自分を練るためにも、皆と仲良くするというのは正しかったと思いますが、人生の後半は、それまでに培った見識を新しい知見で常時アップデートしながら価値に変換して提供するかが極めて重要だということです。しかし、受け取っていただける方がいなければ価値はZEROです。そして、価値を提供してくれる方がいなければ、自己認識の外側に視界を広げることはできません。
つまり、私の発揮する価値を受け取っていただける方と、価値を提供してくれようとする方と、そうでない方を区別なく仲良くする必要はなく、時間を有効に使うべきだと気づいたわけです。
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