「やりたい事をやっている、ありたい自分であるために」
自分の存在って、まずは親や兄弟姉妹との関係から始まり、子として兄弟姉妹として自己との調整や葛藤にどう折り合いを付けて行くかが生活上重要ですよねぇ~。年齢を重ねながら、学習や経験を経て、ありたい自分も変わるし、あるべき自分も変わるし、他人との関係性は増減しながら変わっていきます。
ひとつ言えることは、ありたい自分がない人や、あってもそのために行動しない人は、常に他人との関係に支配され、いつのまにか依存し、本来の自分を見失っていくのでしょう。
たとえば、私の例で言えば、中学2年生のある時までは、「あなたはお兄ちゃんなんだから・・・。」と親から妹への理不尽な譲歩を何度強制されたことか。どんなに抵抗しても、最終的には親に従わざるを得ず、さらには、その結末を見越して大袈裟に泣き叫ぶ妹の狡猾さにはらわたが煮えくり返り、そのたびに悔し涙を流したものです。
これについては、いくら折り合いといっても耐え難いし、何かにつけて干渉してくる母親の言動があまりに不愉快だったので、親との関係を変えない事には話にならないということで、中学2年生の秋ごろだったか、母親との直接対決に持ち込み、理詰めで追い込んで、かなり強引に子離れをしてもらいました。
結果的に母親という後ろ盾を失った妹との関係も正常化し、仲の良い兄妹になれました。
つまり、ありたい自分であるためには、他者との関係の調整が必要だったりするという話しです。
やりたい事をやれるようにするというのも同じ次元の話しです。やりたい事ができている事がありたい自分の一部なので、やりたい事をやれるようにするには、ありたい自分であるために他者との関係の選択・調整・新規構築が必要になることが多いでしょう。
もちろん、その時のありたい自分自体が無理筋だったりもするので、その調整も必要でしょう。このあたりの話しがメタ認知ということに繋がるんです。
無理筋のありたい自分など、社会悪でしかないですからねぇ~。やはりメタ認知が基本なんですよねぇ~。
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