「”あるべき・あらねば”から”ありたい”へ」
その「あるべき・あらねば」は本当に大事?
「〇〇たるもの〇〇たるべし」。
きっとそれは、生まれてからずっと、親や先生などの周囲の大人からの躾や教育、指導、感化などを通じ、いつの間にか身に付けてしまう自己規制が始まりだろうと思います。
それと価値観と言ったり、思想と言ったり、矜持や拘りと言ったりしますが、あらためて見直せば、本当に大事なことは実はあまりなかったりします。
むしろ、手枷足枷となって自らの未来の選択の自由を奪い、成長や飛躍を妨げる要素になっているケースの方が多いかもしれません。
少なくとも見失い人や自縛人をたくさん見てきました。その人が自分の原点だと思いこんているような、大前提となってしまい、絶対だと思い込んでしまっているようなところから、よくよく見なおしをすることをお薦めします。
「あるべき・あらねば」の重大な弊害
自縛の弊害は自分だけなのでいいのですが、見逃せない重大は弊害は、その、”あるべき・あらねば”を、その強い言葉ゆえに自分以外の人間に求めるようになってしまう事です。
配偶者や子供などの家族、友人
部下、上司、同僚、取引先
店員、駅員、タクシー運転手など生活上でかかわるサービス提供者
なぜならば、あるべき・あらねばの主語は、一人称である単純な「わたし」ではなく、人間、男、女、職業(教師、会社員、取締役、医者、看護師、弁護士、プロスポーツ選手・・・)や立場(企業、個人、親、子、先生、生徒、学生、先輩、後輩、上司、部下・・・)と重なってしまうからです。
人間である私は・・・。
→人間は人間の男である私は・・・。
→人間の男は〇〇社の社員である私は・・・。
→〇〇社の社員は・・・。
しかもそれは、往々にして新たなあるべき・あらねばを産み出し、かつ高じてしまい、部下やサービス提供者など、相手によっては表面化した怒りを伴う強力なクレームとなって撒き散らされ、その相手のみならず周囲の人々にまで負の影響を及ぼすこともあります。
友人、仲間に対する余計なお節介や求めるものになってしまったりもし、家族の場合には、躾と称したモラハラや家庭内暴力を引き起こしてしまうこともあるでしょう。
そして、健全な人間関係を構築できずに孤独化してしまう事にもなるでしょう。
表面に出る事なく、内的な不安、不満や怒りで留まったとしても、強いストレスが心身を蝕みます。
そして、もっと最悪なことは、自分に甘く他人に厳しくなる人が大半だということです。
「ありたい」に変えよう
「あるべき・あらねば」は、主語が「わたし」にはならないばかりか、とっても強い言葉です。自己規制だけで済む事はほとんどなく、他の人間に求めてしまいます。自分自身にとっても求められる人にとっても余程大事な事でない限り何一ついい事はありません。
大好きなゴルフを例にしてみましょう。
「ゴルファーたるものは、雪や雷などでコースがクローズしない限りはプレイすべきだ。」を
「わたしは、雪や雷などでコースがクローズしない限りはプレイしたい。」に変えてみます。
寝ても覚めてもゴルフのことしか考えていなかった時期に遡れば、全く違和感なしです。そしてゴルフは生活の一部ではありますが、今は違和感ありますね!
「わたしは、コースがオープンしていても、雨や強風のときはプレイせずに家にいたい。」です。
まあ、それでも、余程のことがない限りはプレイすることが多いですけど、そのうち、積極的にやめようって言い出すかも知れませんね。
あなたのあらゆる「あるべき・あらねば」を「ありたい」に変換して違和感がなければ、少なくもその「ありたい」は今のあなたにとって大事なことなんです。
でも、違和感があれば、ただ先入観にとらわれているだけで、大事じゃない可能性が高いと思います。
「あるべき・あらねば」を、「ありたい」に変え、手枷足枷の面倒な自分を解放すしてみてください。事なかれということではなく、他人にも優しくなれると思います。
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