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巻き込まれ男

 ヒラマツは警察官をしている。真面目で正義感が強く、上司からの信頼も厚い。
「明日、僕がそのひったくり犯を取り調べして、調書を作成しておきますよ」
 捜査に行く上司の仕事を引き取り、休日出勤が決定した。これで次の休みまで15連勤となったが、彼的には問題ない。仕事が好きだし、生きがいを感じているからだ。

 ヒラマツには夢子というひとつ年下の彼女がいる。これで翌日のデートは、断るしかなくなった。
「ごめんな、明日急に取り調べが入っ……」
「いつものことじゃない。大丈夫だよ」
 夢子の食い気味の返事に、ヒラマツは少し後ろめたさを感じた。
 
 いつものことか……。

 そう言われたのは初めてだった。
 付き合って4年になるが、デートの倍以上の数のドタキャンをしている。約束にうるさい女性であれば、どこかのタイミングで振られていただろう。
「夜には帰れると思うから」
「じゃあ、家にお邪魔させてもらうね。仕事頑張ってね」
「うん。ごめんな、いつも自宅デートばっかりで」
「ううん」
 ヒラマツは悪いと思いながらも、慣れた口調で謝り、電話を切った。夢子のたった3文字の言葉『ううん』が、どれほど優しいかヒラマツは知っている。

 翌日、勤務が終わるとスーパーで夢子と合流し、買い物を済ませて帰宅した。二人で一緒に作った鍋をつつきながら、たわいもない話をする。それがヒラマツにとって至福の時間だ。一応は自宅待機中なので、事件に備えてビールを飲むことはできないが……。

「私と、結婚してください」
 それは、突然おとずれた。見ていたドラマの最終回が終わった瞬間だった。少し酔った夢子の口から発せられた言葉に、ヒラマツは驚いた。
「だって、ほら、なかなか会えないじゃない。結婚して一緒に住んだら、ずっと一緒にいられるから」と、夢子は続けた。
 俺が先にプロポーズしようと思っていたのに……。ヒラマツはそう思いながら、夢子を抱き寄せた。
「ごめんな、言わせてしまって」
「ううん」
「結婚しよう」
 いつか渡そうと用意していた指輪を鞄から取り出すと、夢子は頬を赤く染めた。夢子が微笑むとき、小さなえくぼができるのが、ヒラマツは好きだった。

「お父さん、いつが都合いいかな」
「そうだよね、私の家に挨拶に来ないとね」
 指輪を天井のライトにかざしながら、夢子が答える。
 ヒラマツは現実的な話になると、自分の中の緊張がグッと増したのに気が付いた。彼は一度だけ、夢子の父親の写真を見たことがある。中肉中背で、右目の下に小さなホクロがある以外には、これといって特徴のない人だった。十年以上、警察官をしていると、人の特徴をすぐに覚えるクセがつく。しかし、特徴がないということは覚えていても、はっきりとした顔は思い出せない。
「じゃあ、再来週の日曜日ね。お父さんにも言っとくから」
 次の朝そう約束し、ヒラマツは勤務へ向かった。

 ◇

 連勤の終わった日曜日、ヒラマツは菓子折りを持ち、新調したスーツを着て駅まで向かった。お父さんどころか、夢子に会う前から緊張している。リラックス、リラックス。違法カジノへ突入するわけじゃないんだし。失敗しても死ぬわけじゃない。
 駅まであと少しとなったところでスマホをを取り出し『今から向かいます』とメールを送った。『送信しました』の文字を見て、深く深呼吸し、ギアを入れ、再び歩き出す。
 ヒラマツのもう一台の携帯が鳴ったのは、その時だった。
「いまどこだ?」
「古谷寺駅の近くです。どうしました?」
「ちょうどいい。五丁目の交差点で事故だ。けっこう大きいらしい。お前今から来れるか?」
 葛藤はあったが、仕事だ。
「すぐに向かいます」
 彼は迷わずそう返事をした。体はすでにUターンし、現場へ向けて走り出していた。
 途中の信号待ちでネクタイを外し、夢子に電話をかけて事情を説明する。
「……、ごめんな」
「ううん」
 夢子は残念そうな声で事態を受け止めた。そんな悲しそうな『ううん』を聞いたのは、4年の付き合いの中で初めてだった。ヒラマツは自分を責めた。しかし、悪いと思いつつも、社会のために仕事を全うしなければいけないという気持ちのほうが強かった。
 現場に着くと七台が絡んだ玉突き事故だった。対応が終わったころには22時を過ぎていて、この日夢子の家に行くことは諦めざるをえなかった。次はいつなら大丈夫かな。ヒラマツはそう思いながら、薄い雲をぼんやり照らす月を見ていた。

 ◇

 5連勤が終わった土曜日、再び菓子折りを持ち、スーツを着て駅に向かった。一度経験しただけあって、この前ほどは緊張していなかった。感情の方向は違うけれど、コワモテの男に職務質問をするときくらいのドキドキ感だった。大丈夫、大丈夫、大丈夫。ヒラマツはそう自分を落ち着かせ、ICカードの入った財布を取り出し、自動改札へ向かった。
 前にはだらしない格好をした若者が歩いていた。スリッポンのかかとを踏んで歩くその男は、ハーフパンツの後ろのポケットから財布を取り出して、改札へ向かった。
 その時だった。男は自分の前を歩く女性との距離を異様に縮め、財布を自動改札機の真ん中のセンサーに押し付けた。キセルだ。
「待ちなさい」
 ヒラマツは急いで追いつき、男の手を強く掴んだ。
「んだよ、てめえ、離せよ」
「無賃乗車の現行犯だ」
 ヒラマツはそう言って、暴れる男を壁に押さえつけた。そして鉄道警察に身分を明かし、連携して事情聴取を行った。大学生のカバンの中から、サバイバルナイフが見つかったことが事態を長引かせた。
 取り調べが終わると、夢子に電話をかけた。
「夢子、ごめんな。今から向かう」
「お父さん、夕方からお友達と予定があるのよ」
 ヒラマツはまたもや、挨拶に行くことができなかった。


 次の水曜日、夢子の父親の仕事が休みだという連絡をもらい、ヒラマツも勤務を早めに切り上げた。事情を知っている後輩に、少し早く出勤してもらったのだ。
 家に帰って着替え、見慣れた紙袋を持つ。菓子折りの賞味期限を調べると、まだ先だったので安心した。駅まで向かう途中、ヒラマツは自分がほとんど緊張していないことに驚いた。交通安全教室で小学生相手に話す時くらいの感覚だった。
 無事に改札を通過し、ホームに上がって仕事用のスマホをチェックする。電話はならなかった。よし、今日は無事に夢子の家に辿り着けそうだ。そう思い、到着した電車に乗り込んだ。
 中は少し混んでいた。ヒラマツはつり革につかまり、ダウンロードしておいた『結婚の挨拶マニュアル』に目を通す。何度も読んでいるが、念には念をだ。
 一通り読んだところで、携帯をポケットにしまい視線を上げた。すると、目の前には見覚えのある男が座っていた。正確にいうと、キャップを深々と被りマスクをつけていたので、顔は少ししか見えなかった。しかしその薄い眉、眉間のほくろ、一重まぶた、肌の色、泳ぐ視線を見て確信し、ヒラマツは声をあげた。
「立山直樹、お前を逮捕する」
 マスク男は抵抗し、車内は騒然とした。逃げ出す男。追いかけるヒラマツ。最終的には、勇敢な乗客が取り押さえるのを手伝ってくれた。男は他県で殺人事件を起こし、5年に渡って逃亡している犯人であった。事情徴収は3日間に及び、後日ヒラマツは指名手配犯逮捕の功績で表彰された。

 なぜだ。
 なぜ夢子の家に向かうときには、必ずと言っていいほど事件に巻き込まれるのだ。神様が二人の結婚に反対しているのか? 仕事にしか興味のないお前じゃ、彼女を幸せにできないよ。そういうメッセージなのだろうか。ヒラマツは初めて自分の真面目さや正義感を憎んだ。

 次の日曜日には、夢子の最寄り駅までたどり着くことが出来た。しかしトイレを借りようと駅前のコンビニに入ると、ちょうど強盗が来た。翌週の金曜日には、家を出てすぐの路地で、違法ドラッグを密売している外国人を逮捕した。翌々週の土曜日には、夢子の最寄り駅の喫茶店で時間を潰していると、隣からインサイダー取り引きの話が聞こえて来た。
 事件や犯人を目撃するだけでなく、全国一斉飲酒検問やマラソン大会の警備で休日を返上せざるをえない時もあった。

 頼む、挨拶をさせてくれ。

 ヒラマツは悩んでいた。
 犯罪を取り締まり、地域の平和を守るという警察官としての正義も大事だけれど、夢子のお父さんに挨拶に行くことも男としての正義じゃないのか。自分だってドタキャンしたくてしているわけじゃない。だが、いつも何かに巻き込まれてしまう。
 もうこの際、挨拶は電話で済まそうか。いやダメだ。もし自分に娘ができて、彼氏が電話で結婚の挨拶などして来たら、人生で初めて拳銃をぶっ放すかもしれない。
 ダメだ、ちゃんと挨拶に行かないきゃダメだ。

 次の月曜日、お父さんの仕事が早く終わりそうだと、夢子から連絡があった。ヒラマツはすぐに着慣れたスーツを着て、買い直した菓子折りを持ち、玄関のドアを開けた。
 外は、雨が降っていた。いつもと違う。ヒラマツはそう思って、空を見上げた。これまで色々なものに、結婚の挨拶を阻まれてきた。しかし今日は、なんだか上手くいきそうな気がする。雨はヒラマツにそう思わせるに十分だった。駅に向かう途中、しだいに雨脚は強くなってきたが、傘の中のヒラマツはほのかに笑っていた。

 電車はあいにくの帰宅ラッシュだった。みんな自分の傘の置き場を探していた。ヒラマツは自分の足に密着させ、もう片方の手でつり革を掴んだ。水滴でズボンが濡れるが、そんな事はどうでもいい。今日はいつもと違うんだ。しっかり挨拶するぞ。ヒラマツはそう誓い、頭の中でセリフを反復した。電車は一駅、二駅と順調に通過し、夢子の最寄り駅に近づいていった。

 その時だった。ヒラマツは目撃してしまった。
 自分の目の前の男が、女性のお尻を触っているのを。

 痴漢だ。男は黒に白の水玉模様の傘を握り、その右の手の甲で尻をグイグイ触っていた。傘を利用しやがって、常習犯め。女性は気が付いているけど言い出せないような顔をして、ただうつむいていた。ヒラマツの心で怒りが沸々と湧いてくる。クソ野郎が。今すぐ右手をつねりあげて、逮捕してやりたい。警察なめんなよ。
 その時、ふと夢子の顔が頭をよぎった。
 今日もか?
 今日も挨拶に行けないのか?
 もういいだろう。
 被害者の女性には悪いが、いいかげん人生を前に進めたい。
 立ち往生はもう嫌だ。くそう、頼む。
 今日だけ、今日だけは、見ていないことにさせてくれ。
 そして誰か、この痴漢野郎を逮捕してくれ。
 ヒラマツは溢れ出てくる正義感をゴクリと飲み込んだ。俺は何も見ていない、見ていないぞ。目をつむり、そう自分に言い聞かせた。
 水玉模様の傘を握った男の右手は、その瞬間も女性の尻に食い込んでいた。

 電車は夢子の最寄り駅に到着した。降りる人が多いのか、電車から人がなだれ出た。一目散に改札に走るヒラマツ。『この人痴漢です!!』という声が、後ろの方から聞こえるのに期待した。しかしそんな声を耳にすることはなかった。正義の味方はいないのか。

 ヒラマツは改札を出て、罪悪感と二人三脚で夢子の家に向かった。思い描く良い警察官とは正反対の行動をしてしまった。警察学校に入ったときの自分が、今の俺を見たらどう思うかな……。『最低だ!警察なんてやめちまえ』、そう言って羽交い締めにされるかもしれない。自分が恥ずかしい。
 あとは家まで歩くだけなのに、足取りは重かった。間違ってないよな、間違ってない。いや、間違っているけど、今日は、今日だけは間違ってないはずだ。どうか神様、お許しを。

 夢子の家に到着すると、ヒラマツは少しだけ落ち着きを取り戻した。というより、気持ちを切り替えろと自分に言い聞かせた。
 傘をたたみ、スーツの襟をしゃんとして咳払いをし、チャイムを押す。やっとだ、やっと到着した。こんなに長い道のりだとは思わなかった。
 色々な感情が浮かんできて、目がうるむ。
 ガチャっと、玄関の鍵が開く音がした。
 ヒラマツにはそれが、人生の歯車が一つ回った音に聞こえた。

「お父さん、まだ帰ってきてないの。仕事が長引いてるのかしら」
 出てきた夢子が、そう言った。
「上がって、待つ? それとも一緒に、駅まで迎えに行く?」
「そうだな、早く会いたいし。一緒に迎えに行こうか」
「そうね、お父さんも喜ぶと思うわ。ちょっと待ってて」
 夢子はそう言って二階へ上がり、コートを着て降りてきた。長靴を履くのを待っていると、玄関のすりガラスに人影が見えた。
「あら、お父さん、ちょうど帰ってきたみたい」
 夢子がそう言い、玄関のドアを開けた。
「おかえりなさい」
「ただいま。お、ヒラマツ君だね。話は聞いているよ」
 右目の下に小さなホクロのある男は、水玉模様の傘を畳みながらそう言った。

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ファビアン_ ✍🏻第一芸人文芸部
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