手と目に重心を移すこと。 ─3Dプリンターと一緒に土を捏ねる話
はじめに
FabCafe Kyotoで日々いろんな人がものを作る様子を見ていると、しばしばその創作物のクオリティに驚くことがある。レーザーカッターや刺繍ミシンに勤しむ手元を覗いては、メーカー品と遜色のない製品や作り方に出会う。プロトタイピングの域を出て、高いクオリティを保ちながら何かを作る行為が市井に開かれている空気は健康的だ。
しかし、そんな日々の連続の中で、無性に機械から離れてみたくなることがある。指先でボタンを押してから作用が起こり、形が生まれるまでの時間や距離をもどかしく思うことが、よくある。
例えば、鉈を振り下ろして薪を割る。手のじんじんとした痛みと引き換えに得られる火の暖かさ。重力の力を借りながら膨らむガラスに、少しずつ息を吹き込む頬の強張りや、一振りずつ鎌の動きを修正しながら刈り取る藁の積み上がるさま。開かれた地平の甘い黄金と青のコントラストにいつでも深く、新鮮に息を飲む。
手や全身から伝わる情報に耳を澄ませ、即時的にフィードバックするようにまた身体を動かす。そのプロセスには想像もつかないほど細かく豊かな情報の源泉がある。一間の呼吸や寸分の動き、小さな空気の流れや重力、時に恣意性の外側にある要素が決定的に形を捉える時、もはや自身の存在は後退し、そこには健やかな自失の感覚が残る。例に挙げた創作プロセスのうち、スイッチを押せばその通りに動く機械工作よりも時折、無性に手を動かすことに焦がれる理由はそこにある。
ゼロからトーストを作ろうとして冶金に挑んだトーマス・トウェイツが、近代のメソッドより500年前の技法書の方が役に立つことにショックを受けていたように、早く美しく仕事をこなす機械は便利な反面、その仕組みを内に閉ざし僕らを遠ざける。スイッチを押す指先から出力までの距離にモヤモヤした理由はそうした機械の内気さにあり、また僕らは壊れた電気系統ひとつを自力で修理することすら難しい。
デジタル工作機器を扱う場として人と機械の関係性を俯瞰したとき、その内気さを内気なまま放置しておくことはナンセンスに思えた。本来は生きることと同じ地平で語られるはずの「作る」行為を、内気な外注先に手渡す、スイッチを押すその指先が生み得たかもしれない形に思いを馳せる。機械と手、ただの二項対立ではない向き合い方を提示する責任が、工作機器を擁している僕らには必要なんじゃないか。
機械と人のあいだに立って、勘所を探る。すぐには答えの出ない問いへの足がかりとして、まずは土を捏ねてみることから始めよう。
機械とともに。
重心を引き戻す
目の前のモチーフに似せて粘土を捏ねる。制限時間は、よーいドンで加工を始めた3Dプリンターが加工を終えるまで。スイッチを押して出力中の待ち時間をただ過ごすのではなく、自身も形を生み出す役割を果たす。内気な外注先のブラックボックスへ介入するのではなく、あくまで併走するイメージで、自分にできることをやる。機械にもたれかかるように預けた重心を一旦引き戻すような自立心を込めて、屋号を「ひとりでできるもん」とし実践の場を設けた。
モチーフにはデッサンでお馴染みの石膏像を起用。ある程度の大きさのものが手元にあったこと、3Dスキャンされた3Dモデルが入手できたことなどから選定した。冗長になりすぎない時間感として40分間、造形サイズは10cmを目標に、機械は樹脂を積み上げ続け、人は土を捏ね続ける。
ワークショップの準備中、3Dプリンターの限界についてある興味深い考察があった。希望の大きさを任意の時間で出力するために、出力物の解像度を操作する必要があったことだ。樹脂を積層させることで任意の形を作るFDM方式の3Dプリンターは、その積層の幅を操作することで出力時間をコントロールできる。積層の幅が密であればあるほど出力に時間がかかり、粗ければ粗いほど早く造形できる。今回はおよそ10cm程度の像を40分で出力させる必要があり、積層の解像度を限界まで下げた結果グリッチアートさながらのハードコアな石膏像が誕生した。服の筋や顔の凹凸、ガビガビながら最低限のモチーフの特徴を捉えるだけで形として成り立つ妙がおもしろい。3Dプリンターのもつ「美しさ」が早くも揺らぎはじめる。
3Dプリンターがウォーミングアップを終え動作を開始すると同時に、戦いの火蓋は切られる。
素早く全体感を捉える人、いきなり顔の作りにフォーカスする人、モチーフの背景を想像する人、皆が四苦八苦しているのを傍目に粛々とプリントを続ける3Dプリンター、そこにはそれぞれなりの形への辿り着き方があった。笑い合いながら、ストイックに石膏像と向き合いながら、隣の人の完成度に慄きながら時間は過ぎる。みるみるうちに樹脂を積層させ完成に近づく3Dプリンターに負けじと手を動かし続ける。
3Dプリンターが造形の90%を超えたあたりから、人間チームも一気に仕上がりはじめる。「水を多めに含ませた泥を塗りたくると、乾燥後に髪の毛のような質感が得られることに気づいた」と話してくれた参加者の手元には、言葉通り手作業では再現の難しい細かな髪の凹凸をもつアポロン像が荘厳な表情で佇んでいた。素材との対話や手法の探求、手や目から届く情報を咀嚼し再び指先に戻す作業がこの短い45分の間に行われていた。彼だけではないほかの参加者にも手を動かす中で得られた発見がそれぞれに潜む。
途中、細かな造形に各々の指先が限界を迎える中、爪楊枝の登場によりその造形は進展を見せる。他方3Dプリンターの欠かせない要素の一つにもノズルの口径があることに気づく。樹脂の吐き出し口であるノズルの口径、積層の幅、樹脂の融点などをそれぞれ調整することで3Dプリンターは希望の仕上がりに適した造形ができる。大まかに言えば太いノズルで細かな造形は難しい。人の指先と3Dプリンターのノズルの先端、ここに出力の作用点としての共通項が見出せたことも興味深い。
指先の動きや水分との協働、爪楊枝の跡を重ねた起伏やらが一気通貫して結実する。不可逆な時間の流れの中でどうにかこうにか生まれた形はどれも「今ここ」にしか存在しない貴重なものだった。そしてどれにも、自分で作ったからこそ語れる物語があったことも重要だろう。
手とものと語り
メーカーや機械に外注する、誰かに任せる。いわば「プロセスを区切る」ことで僕らは効率や便利を手に入れた。僕らがなんとなく「デジタル」と呼ぶものには、そうした分業のルールや工程をひっくるめた総体のことも含まれるのかもしれない。データを編集し、出力ボタンを押して都度手渡すごとに粛々と作業してくれるからこそ、デジタル工作機器である3Dプリンターは便利で、プロトタイピングに向いていたりする。そこに情動を見出しにくいのは、プロセスを区切ることで思考も細切れになるからだ。自分の手の上で、水や気温、重力や爪楊枝やらの世界と連絡を取り合いながら生まれた形に喜びを覚えるのは、その思考の連続性故だろう。
僕らには言葉がある。指先が世界と触れ合う感覚を言葉でほどくとき、僕らの目の前の事象は初めてナラティブとなり得る。それにはある一定時間思考が連続している必要があり、今回3Dプリンターが動き続けた40分は、土を捏ね続けた40分は、僕らには十分すぎるほどのシンキングタイムと言えた。
動き終えたプリンターから取り外したガビガビな石膏像の首筋のうねりに、髪の毛束の再現の妙に、とはいえうっとりせずにはいられなかったことが、その何よりの証左ではないだろうか。
お知らせ
ものづくりにまつわる示唆や発見にあふれていた初回『ひとりでできるもん』。好評の声を受け、第二回を開催いたします。興味のある方は、ぜひ下記のページをご覧ください。