【小説】黄色、水彩。手に触れるのは。
あらすじ
耳の聞こえない少女――遠峯キミカは一週間前に魔法少女になった。自分の意志で魔法少女になったキミカだが、使い魔である黒猫のクロは彼女を魔法少女にしたことを後ろめたさと迷いを感じていた。そんな二人のある夏の一日。
※暴力描写があります。
黄色、水彩。手に触れるのは。
遠峯キミカ
日傘を差した少女は、はがきをポストに投函した。
ノースリーブの白いワンピース、肩にかからない長さのボブカット。
小動物のようなかわいらしい雰囲気を持つ少女――遠峯キミカは手紙が好きだった。
返信を待つ愛おしい時間や紙の手触り。そして手書きの文字から滲むその人特有の癖やリズムを感じることがキミカは特に好きだった。
はがきの内容は新しくできた友達へ宛てた暑中見舞いだった。
スマホもあるしちょっと古めかしいけど返信を書いてくれるかなと、少し心配ながらも彼女の心は踊っていた。
キミカは家に帰るために、歩き始める。
夏のある休日の朝。茹だるような暑さはまだなく、時折吹く涼しげな風が少女の優しく頬を撫でる。
ちょっと遠回りして、近くのコーヒー屋さんのチャイラテをテイクアウトしようかな。信号待ちの間、ぼんやりと考え事を彼女へ声をかけた女性がいた。
「あのすみません。駅までの道を教えていただけませんか?」
女性の問いかけにキミカは不自然な一拍の間があったが、自分に向けて話しかけられたことに気づいた。
キミカは女性に向けて微笑み、淡い水色をした肩掛けのポシェットからスマートフォンを取り出してロックを解除したあとに画面を見せた。
アプリが整理されたホーム画面。壁紙は真っ白。そしてそこに黒く大きく分かりやすい文字でこう書かれていた。
"私は耳が聞こえません"
難聴障害。等級は2級。
キミカの中耳は彼女が生まれたときから既に成長をすることをやめていた。
いつまで経っても言葉を喋らない彼女を不審に思った両親が病院に連れて行った時にその事実が判明した。
だから、遠峯キミカの世界には、100デシベル以下の音は存在しなかった。
少女が知る音は、体を揺らすかのような大きな破裂音と、耳をすますと微かに聞こえるザーというテレビから流れる砂嵐のような音だけだった。
画面を見た女性は戸惑いとそしてほんの少し奇異が混じった視線をキミカに向けた。
それでも女性の様子から何かを察したキミカはスマートフォンを手早くタップして文字を入力した。
"何か困ってますか? お手伝いは必要ですか?"
障がい者が健常者を助ける。
それを不自然だと思ってしまうこと自体、歪な考え方だ。
しかし、目の前の女性は同じ考えを持っていた。
女性は申し訳なさそうに謝り、その場を去ろうとした。
ただ、音声認識アプリを立ち上げ、向日葵のようににこにこと笑うキミカを見て、女性は思い直してスマートフォンへ向かってもう一度同じ言葉を話し始めた。
黒猫のクロ
わたしは、恵まれている。
カップを持ってコーヒーショップを出た遠峯キミカは、思う。
ホイップクリームとチョコレートソースがトッピングされたチャイラテ。
耳が聞こえないことに気づくと、店員さんはすぐにメニューとは違う分かりやすい注文票を持ってきてくれた。
顔見知りでもない店員さんは注文を復唱する時にわたしの目を見て指差しで確認してくれた。
様々な人へ向けてのルール作りやデザイン。
きっとデザイナーの設計やアルバイトの教育だったり、多くの大人が努力して社会をより良くした結果だと思う。
おかげでわたしは、気分によって色々なフレーバーや組み合わせを楽しめる。
伝えることが億劫になって"消極的ないつもの"を頼まなくてすむ。
それに声を文字に変換してくれる音声認識アプリとスマホのような持ち運べる高性能なデバイスがなければ、わたしはさっきの女性に道を教えることもできなかった。
彼女は包装を開けて、紙製のストローを差しこみ、中身を口に含む。
冷たくて甘い。シナモンの香りと紅茶の風味をキミカは楽しむ。
もしも、わたしが生まれてくるのが今より二十年前だとしたら、今よりもっと不自由だったと思う。
もしも、二百年前だとしたら、わたしは生きていけなかったのかもしれない。
キミカは自分の取り巻く世界へ静かに感謝しながら、歩いていく。
――だからわたしは魔法少女になる決意をしたんだ。
住宅街の静かな十字路までさしかかると、向かいの塀の影から猫が顔を出す。
額に傷がついた不機嫌そうな黒猫。
猫は進路を変えてキミカの隣についてくる。
「暑くないの? クロ」とキミカは言う。
「暑い。黒猫に生まれたことを後悔しそうだ」とクロと呼ばれた猫は答える。
使い魔のクロと魔法少女のキミカは思えば、会話を、意思疎通をすることができる。
「パトロール、お疲れ様。魔獣の気配は?」キミカは日傘をクロへそっと傾ける
「ない。少なくとも、今は」クロはキミカの気遣いへうっとうしそうに鳴く。
魔獣。
世界に仇をなす存在。
人々を恨み、暴力を駆動させる装置。
一週間前にそれは確かに遠峯キミカの目の前にいた。
巨大な紫のコヨーテに似た何か。深く裂けた口。むき出しの牙からは垂れる涎。
ショッピングモールに現れた化物は災害のように、商品をなぎ倒し人を傷つけた。
キミカが逃げ遅れたのは、店内の非常放送が聞えなかったからだ。
同じく逃げ遅れた幼い少年とともに、出口を探すため崩れたショッピングモールを彷徨う彼女は不運にも魔獣と鉢合わせてしまったのだ。
もう終わりかもしれない。
充血し濁った目はキミカと少年に狙いを定めている。
巨大な魔獣が雄たけびを上げ、彼女たちに襲いかかる。
その時、世界が止まった。
抱きしめた少年の頬に流れる涙も、迫りくる魔獣の邪悪な顎も静止していた。
そして視界の端から唯一動くもの――黒猫がこちらに歩いてくるのが、キミカの瞳に写る。
「お前は幸運だ」猫は喋る。
「適正もあるし、俺には丁度、パートナーがいないんだ」
「魔法少女にならないか?」
猫はキミカの前に腰を下して、魔獣のちらりと見る。
「悪いが、選択の余地はない」
びくりと驚いたキミカは猫を注視した。
「あなたが喋っているの?」
「そうだ」
思った言葉が伝わる。彼女は瞳を見開いて、再度驚く。
「どうしたんだ? 時間はないぞ」不審そうに猫は視線を向ける。
「分かった」キミカは頷く。
「いい返事だ」
黒猫は少女に向かって前脚を差し出す。それに触れることによって契約が完了することを示すように。
キミカは屈み、恐る恐るその手に触れる。
強烈な光が瞬時に広がり、世界が動き始める。
フリルのついたミニスカート。茶色がかった髪はビビットな黄色へ。
肩口がふらんだパステルカラーのブラウス。襟は首元まで包まみ、その先はユリの花弁のような緩やかにひろがるレースに彩られている。
それが魔法少女になったキミカの姿だった。
そして、少女の手の中には光り輝く黄色い結晶があった。
「それはお前の武器だ。戦う姿をイメージしろ」
戦うイメージ。
思えば、正義のヒロインはみんな、普通だった。
目が見えない訳でも、足が動かない訳でも、もちろん耳が聞えない訳でもなかった。
普通の人が正義の味方になって人々を助ける。
なにか問題がある訳ではない。ただその事実はキミカの胸をしめつけ、不安にさせた。
キミカは記憶をたぐり寄せる。
盲目の侍が抜刀術で悪人を退治する時代劇。
いつか見た古い映画を思い浮かべた少女の手にはリボンでラッピングされた日本刀が握られていた。
「大分物騒だが、行けるか?」
「うん」
返事とともにキミカは閃光で目が眩んだ魔獣に向かって大きく踏みこむ。
そして、懐に潜りこんだ少女は鞘から抜いた刃を下から喉元に差しいれる。
えうっ。
魔獣の口から叫びにならない嗚咽のような空気が漏れる。
それでも、残虐な反抗の意志を未だ残し、強靭な爪でキミカの体を袈裟斬りのごとく引き裂こうとする。
しかし、少女は素早く刃先を横に向ける。
そして両手に力を込め、上から下に振り切った。
頭と胴は断ち切られ、血液のような黒い飛沫が舞う。
そのまま仰向けに倒れた魔獣は黒い霧となり、発散して、消えていった。
「初めてにしちゃ、上出来だ。俺は黒猫のクロ。お前は?」
「遠峯キミカ」
誰かを傷つけることができる暴力の確かな証。その鋭く尖った刃を静かに眺めてから、キミカは答えた。
「もうすぐ仲間が来る。細かいことはそれから――」
クロは少年がキミカの元に駆け寄り、感謝の言葉を述べていることに気づいた。
「おい、ガキがなんか言ってるぞ。答えたらどうだ」
振り返った彼女は言葉も無く、少年を抱きしめ頭を優しく撫でるだけだった。
まさかな、とクロは思いキミカに問う。
「お前は耳が聞えないのか」
それがどうしたの? そんな風に少女は笑い、頷いた。
遠峯キミカはその時、魔法少女になったのだ。
兎屋スミカ
暴力を十全に揮う対象がいる。これはわたしが望んだことだ。
広がるのは瓦礫の山。
ウサギが描かれたパッケージからシリアルがこぼれている。
まき散った飴玉が破裂した水道管から漏れる汚水に浸っている。
壊された日常のその横に礼服の少女が立っていた。
喪服の男装姿。黒と白とカフスボタン。そして手に持つのは、短銃。
黒い髪が耳元でふわりと波うつ少女――兎屋スミカは魔法少女だった。
彼女を取り囲む獣たち。
被害を抑えるためショッピングモールを駆けまわった彼女は自らを餌に魔獣を集めた。そして、必然的に窮地に立たされ、少女は今、催事を執り行う吹き抜けの広間にいる。
目の前の獣とわたしは対等だ。
構えて狙いを定め、引き金を引く。爆音と閃光。吹き飛び、壁に叩きつけられた獣はずるりと床へ落ち、弾丸が炸裂した腹からはらわたがこぼれる。
それに臆せず、魔獣の一匹が襲い掛かる。少女は体を右へ捻り、繰り返す。
撃ちぬいた頭部が吹き飛び、消え去る。頭を失った獣は飛び掛かる姿勢を保ったまま、一拍の間を持って、首の根元から体液を溢れさせ、倒れる。
残りの獣たちが一斉に飛び掛かると、少女は上へ跳躍する。中二階にある連絡通路の手すりを外側から掴み、体を乗り出しながら広間を俯瞰する。
あと2匹。
魔法少女になれば、常人とはかけ離れた身体能力を得ることができる。
カモシカのような細い脚からは想像できない跳躍が可能になる。成人男性が脱臼するほどの反動を持つ巨大な拳銃を薄く小さい手の中で制御することができる。
力があれば、目の前の化物と対等になれる。
力があれば、わたしを傷つける大人たちと対等以上になれる。
それは兎屋スミカが心の底から渇望した願いだった。
少女は飛び降りる。風切り音を耳で感じて高揚する。日常では味わえないむき出しの生。着地する直前に発砲。獣の一つが血と皮と肉の塊になる。
硝煙が立ち上る銃口を次の獲物に向ける。
実用性を無視し、過剰なまでに威力を求めた回転式拳銃。それは歪に膨らんだスミカの暴力性そのものだった。
たった一匹になった死に怯える魔獣が少女の視界に写る。こんな気分になるんだ。スミカは思う。発砲、閃光。暴力を揮うのって。スミカは優越感に酔う。
柱の影から伏兵が飛び出す。それがスミカに襲い掛かる。四脚の獣に少女は押し倒される。スミカの頭を噛み砕こうと魔獣は鋭い牙が並ぶ口を大きく開く。
どす黒い獣の口内が目の前に広がり、動物特有の湿気を帯びた生暖かい吐息が顔に当たる。スミカはとっさに左腕で顔を隠す。
牙が肉に食い込み、万力のように強力な力でスミカの腕を砕く。光沢のある生地に血が染み込み、色が変わっていく。
少女は血が滴る様をまるで自分のことではないかのように眺める。素早く拳銃を化物の額に押しつける。引き金を引く。撃鉄が上がる。
轟音は響かない。弾切れ。
数秒を要する再装填の時間を魔獣は待ってはくれない。弾を込める左腕は獰猛な牙と牙の間に挟まれて今にも食いちぎられそうになっている。
絶体絶命だった。
獣は腕を咥えたまま邪悪に笑った。目の前の獲物の牙が失われたことに気づいたようだった。
しかし、スミカも笑った。口角を目の前の化物に劣らずひどく引きつり上げて、目は坐り、確かな殺意の火が宿っている。
少女は増幅した腕力で銃口をゆっくりと魔獣の額に押しつけていく。プレス機のような力。皮膚が潰れ、体液が滲む。頭蓋が軋みひびが入る微かな音が銃身から伝わる。
予想外の攻勢に困惑する魔獣を無視して、スミカは力を込め続ける。スミカは笑い続ける。
ついに骨が砕け、鋼鉄の筒が魔獣の頭に挿入される。額からは淡いピンクをしたプリンのような物体がこぼれる。
獣は白目をむき、四肢の力が抜け崩れる。
わたしの勝ちだ。
スミカは覆いかぶさった魔獣の死骸を跳ねのけて、立ち上げる。左腕は既に治っていた。皮膚も肉も礼服の生地さえも元通り、傷もほつれも何一つなかった。
魔獣の死骸もいつの間にか消えていた。あるのは瓦礫の山とその横に立つ礼服の少女。
抑えきれない暴力性を発露する相手を探す兎屋スミカにとって魔獣はまさに求めたものそのものだった。
「スミカ」と黒猫が駆け寄る。
「終わったわ」呼ばれた少女は答える。
「あら」スミカは黒猫の後ろに佇むキミカと目が合う。
「この度、魔法少女になった遠峯キミカです。よろしくお願いします」
仰々しく頭を下げたキミカへ彼女は手を差し伸べる。
「兎屋スミカよ。よろしく」
言葉が通じる。わたしの考えていることが伝わる。キミカは胸が少しだけ熱くなった。こんな当たり前のことすら彼女にとって嬉しかった。
キミカはスミカの手を握り返す。
「わたし、耳が聞える子と話したことがなくて…… 兎屋さん、あの友達になりませんか?」
スミカはクロを見る。猫はいたたまれない雰囲気のまま彼女と視線を合わせないようとしない。
「どうしたの?」キミカは彼女をのぞき見る。
「なんでもないわ、遠峯さん。いいわ、友達になりましょう」
「ありがとう、今度手紙書くね」キミカはにっこりと笑う。
「二人とも変身を解け」クロがぶっきらぼうに言う。
二人は光に包まれる。光は彼女たちの手元に集まる。そしてそれは本になる。
キミカは黄色。スミカは黒。それぞれの衣装に合った本革のようななめらか光沢がある表紙の手帳になった。
「キミカ。今度変身するときはそれのページを破け」とクロ。
彼女手帳をパラパラとめくり、珍しそうに眺めたあと変身の解けたスミカの姿に気づく。ウエストまでのあるボトムアップジーンズと白いTシャツというパンツスタイルだ。
「かっこいいね」
キミカは少し身長の高いスミカを見上げて真っすぐ、彼女と視線を合わせて褒める。それは耳の聞えない少女が意志を間違えなく伝達するために今までの人生で得た仕草だった。
「嬉しいわ」スミカは静かに微笑む。
クロはキミカに命令する。
「今日はすぐに家に帰れ。明日説明する」
「兎屋さんともっと話したいし、クロから魔法少女について何も聞いてないよ」
「いいから、もうすぐ人が来る」
「分かった」
「じゃあ、またね! クロ、兎屋さん」
キミカは軽い駆け足で浮足立つような足取りで去っていく。
彼女の姿が見えなくなるとスミカはクロに問う。
「騙したの?」
「違う。他に選択がなかっただけだ」
「あなたって最悪ね」少女は言い放つ。
「そうだな」猫は否定しない。
「彼女はあなたのことをまるでシンデレラの魔法使いだと思っているのかしら」
「そうかもな」
「彼女の耳は聞えることはないわ。わたしたち、魔法少女は身体機能がただ増幅されるだけ。元の能力が限りなく小さいならば、いくら増幅しても、意味はない」
「その通りだ。俺たち、魔法少女と使い魔は魔獣を屠るためだけに存在する。俺たちはただの自然現象に過ぎない」
災害と同じだ。どうして起きるかというメカニズムは解明できるが、なぜ起きたという理由を探してはいけない。それは存在するから存在しているだけに過ぎず、人が求める動機のようなものは初めからない。
「俺は誠実でいたいだけだ」
「あなたの元パートナーはそれを望んだのかしら」
核心に触れられ、クロは逆なでされたかのようにスミカを睨む。
クロは魔獣との戦闘でパートナーを失った。
しかし、クロは自分の役割から逃れることは出来なかった。
それが彼の存在理由だからだ。クロは新たなパートナーを探すときにすべてを話した。死ぬ可能性があることを。得られる対価が何もないことを。
だから彼のパートナーは長い間、いなかった。
「命をかけて奉仕するお前らに俺たちは何も与えられない」
クロは自分に問い詰めるかのように呟く。そしてスミカに尋ねた。
「お前は何で魔法少女になったんだ?」
「そんなの決まってるじゃない」
少女は答える。
「恐怖や痛みは水と同じように高い場所から、低い場所へ流れていくのよ、クロ。わたしは高いところにいたいだけ。ただそれだけよ」
あなたの世界
この世界にはルールがある。俺はそれに従うだけだ。
歩道橋の手すりに座る黒猫がいる。
街灯がアスファルトを照らす。時折通る乗用車のテールランプが赤い残像を作る。深夜の幹線道路を、人の営みを、猫は眺めている。
しかし、猫が本当に見ているのは自身の取り返しがつかない記憶だった。惨劇が彼の頭蓋の中でフラッシュバックする。
千の剣。夕暮れ。体液。死の匂い。泣かないでクロ。
膚の下の黄色い脂。蝉の声。切先から垂れる赤い雫。苦しまないでクロ。
鎧の自律人形。動かなくなった四肢が何度も剣に弄ばれてゆらゆらと揺れている。
瞳。血液に濡れて赤い膜がはった瞳。まばたきをしなくなった瞳。俺を見ている瞳。
俺が選んだ。だからアイツは俺が殺したようなものだ。
彼は何度も自分に投げかけた呪いの言葉を繰り返して下を仰ぎ見る。ちょうど、軽自動車がこちらへ向かって来る。猫は身体を空中に投げ出す。
クラクション。猫はバンパーに衝突する。
物理法則はこの世界のルールであり、猫も軽自動車もそれに従う。小さなへこみが出来た軽自動車は速度を緩めず、彼の元から離れていく。猫は吹き飛ばされ、その内臓は衝撃で破裂する。腹から血液を溢す。
これでいい。俺はもうたくさんだ。
猫は動かなくなった後脚を引きずりながら、縁石のそばまで身体を運ぶ。彼はありふれた野良猫の死を選んだ。それでも猫には、後悔はなかった。痛みよりも、役目から降りられる安心感が勝っていた。自分の血液の暖かさに溺れながら、黒猫は息を引き取る。
空が白んでいき、朝日が昇る。世界が太陽によって彩られ、今日が始まっていく。
その中で猫が目を覚ます。身体は理由もなく治っていた。
ただ額の傷だけは残っていた。それは世界から与えられた呪いの印だった。
血液が体毛と混ざり乾き、凝固していた。猫はアスファルトに固着した身体を無理矢理引きはがしながら、立ち上がる。そして自分の置かれた環境を理解する。
エンジンの音。街路樹のざわめき。通行人の声。変わらない日常。
それは黒猫にとって絶望だった。逃れられない自分自身の役目への。
※
少女のとともに歩く黒猫がいる。
時間は正午前になっていた。キミカの握るプラカップには水滴が集まり、時々灼熱の太陽に焼かれた路面に落ちる。
「暑いね~クロ。日傘がなかったらわたし、死んでたかも」
クロは幼気な少女にすべてを話せずにいた。そんな彼の思いを知らないキミカは突然思い出したかのように足を止め、ポシェットを探る。
「はい、クロにもあげる」
屈んだ彼女はプラカップを地面に置き、両手でクロの前に、はがきを差し出す。
「いらねえよ」
「これからお世話になるからね」
向日葵と青空がプリントされた既製品の絵はがき。そこには彼女の手書きの文字とデフォルメされた目つき悪い黒猫がボールペンで描かれている。
「だからいらねえって。俺とお前は友達じゃない」
「えー」
キミカは口を尖らせて不満を露わにしたが、クロも意固地になって受け取らない。しかし結局は根負けして、猫はため息をついた後、はがきを咥えて歩き出す。
「はがきは誰に出したんだ」とクロ
「兎屋さんだよ」とキミカは答える
「アイツが返事を描くとは思わないな」
「わたしから書くことに意味があるんだよ。仲良くなりたいなっていう印だから」
くすくすと笑い声が聞える。すれ違った補習帰りの女子高生が会話が聞こえる。
なにあれー。可愛くない?
純白のワンピースを着た少女とその隣を歩くはがきを咥えた黒猫。一人と一匹は通行人の注目の的だった。
母親に手を引かれる幼い子供はクロを指さし、黒猫の郵便屋さんだと無邪気に言っている。クロは自分が笑われていることに気づくと声を上げる。
「おい!」
振り向いた黒猫が見た少女はじゃーんと言わんばかりにクロへ向けて両手を拡げていた。住宅街の角地に二階建ての家が建っていた。
小さいながらも庭があり、そこには桜の木が植えられていた。それがキミカの住む家だった。
「着いたよ! 入って」
クロは今日二回目のため息をついて渋々キミカの後ろについていく。
家の中には誰もいなかった。玄関から見えるカウンターキッチンにある冷蔵庫には大きなホワイトボードが掲げられていた。書かれているのは取るに足らない買い出しのメモや家族の予定。
キミカはクロを抱えて階段を昇っていく。
「男の子を部屋に上げるのって初めてかも」とキミカ。
「俺は猫だぞ」クロはうなって抗議する。
「関係ないよ。あっクロ、えっちなこと考えたでしょ」
「考えねえよ!」
扉を開けて少女は自分の部屋へ入る。黒猫はクッションの上に置かれる。
「飲み物を持ってくるから待っててね」
クロは辺りを見回す。六畳の小さな部屋にベットと机が置かれている。
窓の隣に付けられたコルクボードには絵ハガキやポストカードがピン留めされている。
水彩で描かれた風景や白と青が印象的な金の輪をつけた天使が夜空を飛ぶイラストなど様々だ。
ベットには可愛らしいぬいぐるみが枕元に二つ並んでいる。他の年ごろの少女と変わらないだろうその部屋にクロは居心地の悪さを感じた。
耳が聞えないとしても、少女は自分の人生を愛していた。そして彼女を取り巻く世界はどこにでもある幸せな家庭。それがクロの胸をより締めつけた。
盆に飲み物を乗せたキミカが部屋に戻ってくる。ペパーミントの香りがクロの鼻にも届く。ガラスコップに注がれた泡立つサイダー。
「はい、クロにはお水」小鉢に入ったミネラルウォーターが猫の前に置かれる。
「話があるんでしょ」と一息ついてキミカ。
彼女がわくわくしていることがクロにも伝わる。猫は尾を揺らしながら話しはじめる。
「いいか、魔法少女になっても、何も願いは叶ったりしない。お前の耳が聞える訳ではない」
「でもクロとは、話せるよ」
「それは魔法少女として必要なだけだ」
猫の片目の瞳孔が細くなる。片方は今を見て、もう片方は過去を見ている。
彼は無から猫の姿として生み出された。ぱちぱちと氷の割れる音が聞える。
「魔法少女と使い魔は魔獣を屠るために生み出された自然現象に過ぎない。おとぎ話はここにはない」とクロは言い切る。
「そして時として魔法少女は死ぬ」
自分の存在が定まらない雨ざらしの黒猫に差し出される手、微笑み。
お腹すいてない?
少女はクロが選んだ最初の魔法少女だった。そして彼の名づけ親だった。
室外機の中で回転するファン。その不快な振動音が部屋へ微かに響く。
「俺の最初のパートナーは死んだ。魔獣に殺された」
言葉が引き金となり壊れた蓄音機のように決まったシーンがリピートされる。
「戦闘に慣れた頃、がらんどうの鎧が現れた」
公共の火葬場。コンクリートで作られた煙突から白いけむりが空へ伸びている。
「俺とアイツは単独で向かった。思えば、油断してたかもしれない」
俺へ笑みを向けた少女のすべては煙と骨になった。ツツジが生い茂る生垣の横にある無機質なエントランスの自動扉が開かれる。
「ふとした拍子にアイツは転んだ、鎧はその隙を見逃さなかった」
「馬乗りになってからはすべては一瞬だった。鎧はアイツの喉元に剣を突き刺した」
「溢れる血を両手で必死に押さえながらアイツは俺を見た。俺は鎧に飛び掛かった。だが無駄だったんだ。俺はただの黒猫だ。」
喪服姿の人間が出てくる。少女の親族と何人かのクラスメイト。アイツが親友だと言っていた奴は泣いていた。
「動かなくなったアイツの身体へ鎧は何度も何度も剣を突き立てた」
親族の会話が聞える。エンバーミングでしたっけ。あの遺体を綺麗するやつ。大変だったらしいよ。だって体中、傷だらけだったからねえ。女の子なのに可愛そうにね。
「仲間が来るまで俺は見ていることしか出来なかった」
猫は前脚が震えていることに気づく。四肢は痺れ、嗚咽は止まらない。
湧き出つづける感情が身体を支配して自分ではどうしようもなくなっていた。それでもクロはキミカに向けて言葉を紡ぐ。
「お前が今まで生きた世界には本当の痛みや苦しみがないんだ。だから――」
「話してくれてありがとう、クロ」
キミカはクロを抱きしめる。
「分かるよ。わたしが世界に守られていることは」
「どうしても隔たりを感じていたの。パパもママもだって、耳の聞こえないわたしに向けて努力してコミュニケーションするの」
「パパはね、最近わたしに触らないんだ。前までは肩を叩いて呼んでいたのに、今はわたしの前に来て気づくのを待っていてくれる」
「わたしが年ごろになったから、パパは気にしているんだと思う。わたしは別に気にしないのにね」
「だけどそれはきっと、パパがよく考えて選んだはずだからわたしは受け入れるの」
「わたしはそんな優しいパパが好き」
猫を抱く少女の腕の力が強くなる。美しく満ち足りた彼女の世界を愛するかのように。
「細やかな気遣いに包まれて、わたしは生きている。でもそれが時にはとっても息苦しい。わたしはずっと世界から返しきれない恩を受け取ってきてるの」
「でもそれは言葉にしてはいけない。表に出してはいけない」
「だって、耳の聞えない子は話せないから。事実は変わらない。差別されること、区別されることは当たり前だったはずだから、文句は言えないよ」
「だからね、クロ」
キミカはクロを見る。
「誰かを救える魔法少女になって、わたしは初めて世界と対等になれる気がするの」
「例え、自分が死んだとしてもか」
「その時は耳が聞えないのに魔法少女になった自分を恨むよ」
「お前は選べなかったはずだ」
「クロには何も責任はないよ。わたしの耳が聞えないその理由を探すように」
「自然現象に過ぎないんでしょう? わたしもクロも」
「強いんだな、お前は」
「よく言われます」
「なんで敬語になるんだ」
「褒められるのが、恥ずかしくてー」
えへへと照れ笑いを浮かべながらキミカは頭をかく。居たたまれない気持ちになったクロはもぞもぞと脚を動かし、少女の胸から脱出する。
「クロにお願いがあるんだよね」と再びクッションに座った猫へキミカ。
「何だ」とぶっきらぼうに黒猫。
「あいさつの練習に付き合ってほしいんだ」
「こんにちはとか、ありがとうございますとか簡単な言葉をクロがわたしの声を聞いて少しずつ修正していくの」
「そうすれば、日常生活で便利だしね。魔法少女である内にマスターしたいんだ」
「……死ぬつもりはないんだな」
「そうだよ、わたしは死ぬときまで死なないよ」胸を張ってキミカ。
「なんだそれ」小さく笑うクロ。
木漏れ日が窓から射しキミカとクロがいる部屋を柔らかく照らす。
耳の聞こえない魔法少女と使い魔の黒猫との奇妙な発声練習。それは二人にとって揺るぎなく残酷である世界に対抗する小さな意思表示だった。
――こんにちは。
――ほんひちわ。
「変だな」
「ひどい! 笑ったでしょ」
「口が開いてないんだ。人間の真似をするから見ろ」口を大きく開けてクロ。
「……ヘンなカオ」じーっとその様子を眺めてからキミカ。
「お前なあ」
「ごめんねクロ、もう一度」
――ありがとう、キミカ。
――あいあとお、ひいか。
「クロ、今なんて言った?」きょとんとする少女。
「何でもない」そっぽを向く黒猫。
背けた猫の眼にうつる世界はそれでも変わらなかった。
魔獣が現れれば、少女は命を天秤にかけた嵐の中に飛び立っていく。世界の根底にある冷たいルールからは誰も逃げられない。
ただ、今だけは彼女と彼女を取り巻く暖かい日常という風景の中でたゆたっていたいと黒猫は思った。
問い詰めるキミカを無視してクロは小さい伸びをした。
あとがき
本文は過去に別媒体で記載した作品になります。私がnoteでの活動をメインにしていくため、まとめました。