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デザインで優しさを届けたいという話

これは フェンリル デザインとテクノロジー Advent Calendar 2019 23日目の記事です。

私がユニバーサルデザインに取り組む理由

「杉浦さんはどうしてユニバーサルデザイン(またはアクセシビリティ)にそんなに積極的に取り組んでいるんですか?」

今年、ユニバーサルデザイン(以下UD)などを取り扱う課に所属してから、社内外で一番問われた言葉だ。それはもう偉い人から新卒メンバーに至るまでかなりの人数に聞かれた。このワードを聞かれた時にはいつも「逆にどうして取り組まなくていいと思うんですか?」と聞き返すことにしている。

私がデザイナーをやっている理由の一つに「デザインで優しさを届けたい」というのがある。素晴らしいデザインにはその力が宿っていると信じているので、現在はアプリやサービスを通して、優しさを届けたり伝えたりできるようにするためデザイナーを続けている。正直なところUDはそのための一つの手段(ツール)だ。アクセシビリティも同様である。特にアクセシビリティは基準があるが故に、基準を達成することが目的になってしまいがちだが、私にとって本当の目的は対応することですべての人に優しさに届けること。そのためのアクションの一つがUDやアクセシビリティに取り組むことである。

そして、ここのところ私がユーザーに届けたいこの優しさと言うものの根底は人権ではないかとずっと考えている。

アクセシビリティは基本的人権だ

人権とはなにか。メジャーなのは世界人権宣言だ。私がツラツラ書くよりも、分かりやすく書いてあるものが世の中には多くあるので調べてみて、自分の目で見て、知ってもらうのが早いと思う。平たく言えばあらゆる人が生まれながらに持っている権利である。

わかりやすい日本語で読む世界人権宣言

基本的人権は日本国憲法第14条にも書かれているとおり。「法の下に平等」というあれである。第2次世界大戦後に策定されているもので、日本で育った人ならば一度は目にしたことがあるのではないだろうか。同様に日本国憲法11条にも基本的人権にも言及がある。

日本国憲法第14条
すべて国民は、法の下に平等であって、人種、信条、性別、社会的身分または門地によ り、政治的、経済的又は社会的関係において差別されない。
日本国憲法第11条
基本的人権は、侵すことのできない永久の権利として、現在、及び将来の国民に与へられる。

その他の条項にも人権に触れている部分があるが詳細は省く。14条や11条から自分なりに基本的人権は以下の通りだと認識した。

基本的人権とは、人間が人間である以上、人間として当然もっている基本的な権利であり、人間らしい生活を送る権利である。

たぶん私は、デザインを通して、誰もが人間として自分らしい生活を送れるものを提供したいのだと思う。

エシカルデザインという考え方

現在、私はフェンリルのエクスペリエンスデザイン課(以下XD課)に所属しており、XD課では毎週メンバー持ち回りで何かプレゼンをやったりする。議題があったり、悩んでいるときには意見交換や壁打ちをやってもらったりもするのだが、先日、課の定例ミーティングで下記のような疑問の壁打ちをしてもらった。

「アクセシビリティは基本的人権」というキーワードについてずっと考えている。日本でUDやアクセシビリティが浸透しないのは、日本は人権意識が低いからではないか。

このnoteを書くにあたっての疑問として投げたのだが、あまりにも大きい問だったからか「それ本当にまとまる?」と盛大に突っ込まれながらも、「そういう意識を浸透させるような取り組みあるよ」とエシカルデザインについて教えてもらった。

エシカルデザインのマニフェスト


↑ まったく知らなかったのだが、UX MILKではMeetupがすでに数回開催されていた。さすがだ。

エシカルは「倫理的」「道徳的」という意味の英単語だ。よく聞くキーワードとしてはエシカルファッションではないだろうか。環境問題や社会問題などに配慮した素材で生産・販売・流通させ、その購入した商品を着た人をも指す。似た言葉にコーヒー豆の流通などで使われる「フェアトレード」があるが、こちらのほうがイメージしやすいかもしれない。

エシカルデザインはざっくり書くと、人権、環境、社会のすべてを抱合して持続性や影響を考えるデザインだ。頂点には人やモノへのリスペクトがある。

調べるとエシカルデザインはそこまで新しい概念ではなく、世界のデザイナーはすでに身についている考え方のようなのである。人種や多様性に対してセンシティブである必要がある国や文化では当然のことなのであろう。

逆に日本人にとってエシカルデザインの土台となっている人権そのものがあまり自分ごとに置き換えられないもののようだ。昨今、ヘイトスピーチが問題となっているが、これはその一つの答えのような気がする。自分の未来にとってどれだけ人権が影響するのかが想像できないのかもしれない。

なぜデザインするのか

デザインはどこまで影響するのだろう。
私は人権意識が高くなればUDやアクセシビリティは浸透するかもしれないと考えていたが、もしかしたら適切にデザイン(設計)するという行為を通すことこそが、人権意識の向上につながるのではないか。

私は主にアプリやWebサイトのデザイン(設計)に関わっているが、リリースした後からUDやアクセシビリティに対応することは実はとても難しい。どうしても情報設計からやり直さないといけないことも多く、すでにクライアントやプロダクトオーナーの理解を得られなかったり、よしんば得られてもコストが増えるなどの理由で頓挫することも多い。デザインは上流からきちんと情報設計しないと結局だれにも使われないアプリができてしまうのに。

今やなにかしらのハンディキャップを持っている人たちの90%がWebサイトやスマートフォンを使いこなして情報を得ているのを忘れてはいけない。ビヨンセの公式サイトがアクセシビリティに対応しておらず訴えられたのは記憶に新しいが、障害を持つアメリカ人法(ADA)など、先進諸国の法律でアクセシビリティ対応の訴訟件数が何十倍にもなっている現実があり、それは多様性に対応しないと遅れを取るぞという意味と同義である。日本はアクセシビリティにおいてかなりの後進国になっているのだ。


最近、私が自社で師匠とあがめている方にこう言われた。

デザイナーは思想を持っているべきだ


なぜデザインするのか。

こう問われたら、私はエシカルなデザインをすることで、アプリなどを通して、すべての人に優しさを届けたいし、それにより社会に影響を与えたい。デザインの力が影響を与え、ユニバーサルデザインやアクセシビリティというツールがこれ打破する一助となると信じている。

さいごに

UX MILKで登壇されていた栄前田勝太郎さんのnoteを参照したい。

「なぜ」「何のために」デザインするのか?を考える際に「社会のどこまで」という要素を足してみる

デザイナーならばデザインを行うときに「社会のどこまで」を意識するべきだ。そこには人権を持った「ユーザー」が必ず存在することを忘れてはいけない。そしてその「ユーザー」とはあなたそのものなのだ。

UXを与えるのはデザインだけではなく、その実装だったり、サービスだったりプロダクトだったりする。デザイナーだけでなく、エンジニア、その先にはあなたというユーザーがあり、その行動すべてがUXとなる。UXは体験というストーリーの一部なのだから。そして、それがエシカルなものであれば、そのUXを届けられる人の数が何倍にも、何十倍にもなる。

さあ、みんなでエシカルなデザインを通して、一緒に優しさを届けませんか?


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