0047:知的環境の中で暮らすことの価値(その2 私の場合)
昨日は、今の我が家の知的環境を子供たちに生かしてほしい、という話を書いた。時間がなくて書けなかったのが、私自身の子供の頃の話だ。
私の生まれ育った家庭は、父がサラリーマン、母が家業の二馬力だった。けれども決して裕福というわけではなく、むしろ平均より貧しい方だったのだろうと思う。大正生まれの父は結核で高校を中退し、経理事務でいくつかの中小企業を渡り歩いたと聞く。昭和一桁生まれの母は、学問をしたかったが親に反対されて高等女学校までしか行くことが出来ず、洋裁の道に進んだ。私が小学校高学年頃まで、我が家のテレビは白黒でVHFしか映らず、UHFを観たいときは近所の家に上がり込んで観せてもらっていた。私が社会人になる以前の家計の状況を詳しく知る機会はなかったが、大学入学時に日本育英会の第一種奨学金(無利子)の収入基準をクリアしていたことから、なんとなく察することはできる。
母が教育熱心で、家族の食事や娯楽は質素なものだったけれど、その分、私の教育にお金を使っていたようだ。もちろん当時はそんなことを理解できる由もない。学研の「○年の学習」は、自分の学年ともう一学年上を同時に取っていた。つまり今の自分の学年のものは2回(2年間)読んでいたわけだ。他にも学年によりポピーとかトレーニングペーパーとか月例教材が配達され、小学校半ばくらいまでは真面目にやっていた。中学校以降は一筋縄ではいかない人生(今は語らない)を送ってきたのだけれど、思春期以前の私に与えられていた教育環境は、家計の状況に比べてかなり良いものであったろう。
もうひとつ、私に決定的な影響を与えた環境。それは、自宅から徒歩一分のところに公立図書館があったことだ。田舎町の小さな図書館で、子供向けの本は限られた数しかなかった。私はおそらく幼稚園の頃からここに通い、小学校後半にはそれこそ日参して、推理物やSFのシリーズを繰り返し夢中になって読み耽った。本好きになった私は学校図書館も活用した。自分で自由に読みたい本を買えるようになるのは十代半ば以降だが、それまでの間、図書館は私の好奇心をどこまでも掻き立ててくれる夢の場所だった。だから大きくなったら自分は図書館員か書店員になるのだと思っていた(実際就職活動の過程で書店チェーンを受けたが、公務員試験に受かってしまい書店員の夢は潰えた)。
思春期以降は、本以外にもテレビ・ラジオ・映画に夢中になった。親はそれをあまりよく思っておらず、「勉強しなきゃいけないから、ほどほどにしなさい」と何度も言われた。もちろん従わなかった。勉強するふりをして本を読み、ラジオを聴いた。今なら分かる。勉強を怠ったために得られなかったものが確かにある、それと同時に、本を読みラジオを聴きテレビや映画を観て心をわくわくさせる中で培われたものが確かにある。そして、後者もまた間違いなく豊かな知的土壌を形成しているのだと。
あれから四十年。今、我が家の子供たちはインターネット、とりわけYoutubeに夢中だ。下の子(中学生)などはドリルを解きながら目の前に置いたiPadで動画をいつまでも流している。親(私)はそれをあまりよく思っておらず、「勉強しなきゃいけないから、ほどほどにしなさい」と幾度かいいつつ、諦めている面がある。強制することの利と害、おそらく害の方が大きいのだと、自分自身の思春期の経験から分かっているからだ。「勉強した方がいいのは確か」ということ、「親がいっても本人には響かない」ということ、「自分の心に響くものを堪能することは、一生モノの感性を培い、一生モノの知的土壌を耕す(つまりその人間の個性を織り上げる)ことを意味する」ということ、全部分かっているからだ。
なお、分かっていても口を出す親心だけは、親の立場になって初めて分かった。子供の頃は「自分が親になったら絶対子供の自由にさせてやる」と思ってたもんなあ。今の子供らはそう思ってるんだろうなあ。
■本日摂取したオタク成分
『キューポラのある街』有名な作品だが今回初めて観た、といっても他のことをしながらだったので話半分。なんか構図とカット割りがキリッとしてて、名作感がある。『麒麟がくる』第30話、先週分まで追いついた。盛り上がってる。『ヒプノシスマイク-Division Rap Battle-』第5話、これはもう家族が観てるのでなんとなく観てる感じ。『アンという名の少女』第1期最終話、あー、事前に鬱展開情報をTwitterで観てたのでショックはないけど、こう来るかあ、ここで終わりかあ。マシュウも取り付け騒ぎを生き延びた。つまるところ、これは「赤毛のアン」とは別の世界線を描く新たな創作物なのだね。