初演にむけて
「ニュー・ノーマル(Normal)」という垂直性が⽇常という塊をとりかこむと、「形式(Form)」は、防腐処理された社会とのコントラストを⾼め、かえって露になっていくのではないでしょうか。
⼈間的なものは抑えがたく昇華し、そもそも⾮依存的であった記号が抗いをみせる。
沈殿していた歴史は、一/多というパースペクティヴそのものの変換の中で、意識の流れというパターンの専制から放たれて遊動し、〈過去という連続性〉の遺物のようにみえていた⽂化遺産の同一性は、過去を必要とする存在という過去へと再帰する水平線においてふたたび受⾁していくでしょう。
『百⼈⼀⾸のための注釈』は、2012年に作曲されて以来そのような受肉の機会を探っていましたが、今回の演奏会にむけ2020年に改訂されました。
『百⼈⼀⾸』に蒐集された百の詩歌がひとつひとつ、ひとつの作品へとふたたび収斂し、それらを嵌めこんでいた短歌という鋳型(5 - 7 - 5 - 7 - 7)そのものもコンパイルされる過程、改訂の過程がさらなる褶曲を生み、「強度」を希釈化する過程。
この作品は、現代との対話そのものを続ける力能を培ってきた⽇本的な歴史の節度の隠喩かもしれません。
5 - 7 - 5 - 7 - 7というコンパクトなメトリック(韻律)がメトリック(拍節法)を規定していくこの作品においてそれに拮抗するのは、3音がそろってはじめて成立する、したがって⼆項関係に還元できない、トリコルドという単一のオブジェクトが、オクターブの軛をこえて運動するその軌跡としてのセリーの充溢です。
トリコルドの順列組合せによって合成に合成を重ねる連鎖のフラクタル様の「形式」の中に「内容」としての音楽が発生していく場、「形式」と「内容」の交錯配列は、見かけの動きの中で、始原の複雑さを「詠む/読む」儀式の儀式性へと、耳を誘います。それは、時間につらぬかれている⽂化/表出の、自然な変換への呼びかけ、存在論的な瞑想です。
⾃然の詩的な神秘は、抽象的な思考をこえ、可感で⼈間的な、もろもろの欲望の共振のコントラストを高めていくでしょう。
初演実現のためサポートいただけましたら幸いです!