「車窓の〜」を自分で解説してみる
表現物(この際は文章)を作者自身が解説するという行為に対して、僕は非常に懐疑的であるということを伝えておきます。最後にまたこのことについて述べます。
記事の内容はタイトル通りです。
「車窓の〜」に関しては、こちらの文章です。まずは文章を読んでからこの記事を読み進めてください。
0.背景
今回この文章を書いたきっかけは、現在noteで募集している「旅する日本語展覧2019」です。
400字以内
特定の日本語をテーマとする
という条件で作品を募集しています。
旅はあんまり好きじゃないけど、ショートストーリーなら書けるか、なら書いてみるか、ということで執筆に至りました。
1.テーマ 〜季語と俳句〜
テーマは「俳句」です。
今回、「美しい日本語」をテーマに据えろということで、その一覧を眺めていました。そして、思ったことが。
「あーーーー、季語。」
俳句をかじった経験がある僕にとっては、何か見たことがあるような言葉がぽつぽつ...
実感がない言葉を無理やり文章にするのは難しそうだと感じ、僕はこの言葉のテーマを俳句に押し込めることによって、実感を弱めつつ、多層的な構造にしてみようと思いました。
2.構造
〜サッカー漫画の中でのテレビの試合シーン〜
イメージとしては、サッカー漫画の中で繰り広げられる、テレビのサッカーの試合シーンみたいな構造です。
ショートストーリーという大枠の中に俳句という構造を入れ込みました。
しかし、この例を出したのはもう一つ理由があります。
「サッカー」を共通点として持つサッカー漫画とテレビのサッカーと同じように、今回のショートストーリーと俳句を同じ領域だと判断したのです。
僕は、この企画の要項を読んで、「これは俳句を詠む企画なんだろうな」と感じました。
四季を感じる美しい日本語をテーマに文章を書く。それはまさに俳句と同じではないでしょうか。
季節を詠む文章の中で季節を詠む俳句を入れることの二重性に頼ったという形になります。
3.メッセージ 〜俳句とは何かを見つめ直す〜
僕がこの文章で追求しようとしたものは、「俳句とは何か」です。
俳句には様々なルールがあります。
「季語を入れる」
「17音」
「句読点は打たない」
「スペースは入れない」
(特にこれは初心者はやりがちなのではないでしょうか。「松島や ああ松島や 松島や」ではなく、「松島やああ松島や松島や」です。)
その他諸々。本当にたくさんあります。
でも、決して575だけが俳句ではないです。(それゆえに先ほどは「17音」と表現しました。)さらに言えば、17音でないものも俳句ということはあります。
自由律俳句と呼ばれるものです。これを読んでみてくれればわかると思います。このタイトルも俳句です。
では俳句とは何か。僕は研究者でもありませんし、今はもうやっていませんし、もう何もわかりません。
ただ、一つ、僕が思っているのは、いじめられっ子がいじめられたと主張すればいじめが定義できるかのように、俳句であると主張すれば俳句を定義できるのかもしれないということです。
「いじめ」というものになんとなくのイメージはあると思います。でも、結局は明確な定義がない。それと同じように、俳句にもルールはあるし、イメージもあるけど、それは揺れ動くものなのではないかということです。
つまり、僕は400字の俳句を詠もうと試みたのです。
4.内容 〜「僕」と「姉」は文面にしか存在しない〜
この物語の中に出てくる「僕」と「姉」は質量を持って存在しているわけではないように感じます。言ってしまえば、この文章自体が血肉です。
二人が話せば話すほど、文字としての文章が紡がれます。
「僕」が俳句というものについて興味を持ちます。そして、俳句とは何かを「姉」に聞きます。「姉」は弟とともに「俳句とは何か」を見つめようとします。
しかし、言葉を紡げば紡ぐほど、俳句という形式から離れていきます。文字数も、句読点も、スペースも。
一方で、「僕」は現在進行形で紡がれている文章を俳句だと思って疑いません。
「姉」は最初はかわいい弟だと思っていたのかもしれませんが、俳句から離れてしまう自分たちの会話を感じながら、落ち込んで行きます。もうこれは俳句ではない。そう気づいてしまったのです。
「姉」は気づきました。これはショートストーリーになってしまったのだと。「僕」と「姉」が紡いできた、読点がない世界に終止符を打ち、俳句ではないことを明確にするのです。(このセリフまで、読点「、」は打たれていません。)
そして、「姉」は言います。
「車窓の景色はいつも車窓の景色でしかないように、俳句は俳句でしかないの。」
車窓から見える景色はいつでも枠に区切られガラスを通しています。どうあがいても景色そのものにはなれないのです。
俳句も俳句の枠が必要なのかもしれません。定義ってなんなんでしょう。
5.表現物を作者自身が解説する行為に関して
世の中には二種類の表現者がいると思います。
自分の作品に首輪をつなぐ表現者と、作品を野放しにする表現者です。わかりやすくいえば、自分の解釈や解説をすごく言いまくるか、言わないか、です。
僕の勝手なイメージとしては、首輪につなぐ人より、野放しにする人の方が「えらい」ように映る気がします。
でも以前、首輪につなぐとまではいかないものの、自分の作品に関しては語りたくて仕方がないという画家の方の話を聞いたことがあります。
その方の話は非常に腑に落ちました。その方は、非常に作品に作者性を込める方でしたが、そのような場合、作者が解説することで見るひとと作者の意見が合わさってアウフヘーベンできる、それが素晴らしい、みたいなお話を聞きました。
ただ、その人の作品は、先ほども言ったように非常に作者性が強いです。その作者性というのも、その人のスタイルが世間に認められているという状態です。それでその人が解説するなら、むしろ歓迎って感じがします。
しかし、これを僕がやるのはどうなのか。僕には少なくとも作者性のかけらもありませんし、そうなるとその作品自体を事細かに解説していくことになります。結果、非常に自己中心的で自己満足的な解説になりました。皆さんは読んでみてどう思ったでしょうか。
さらに僕がここで思うものが、この作品の正解を僕が提示してしまうことになるということです。僕が勝手に正しいかもわからない妄想的な文章構造を延々と語りましたが、この構造の捉え方が正解になってしまいます。さらにいえば、僕の解説以上に作品を悪いという批評が現れる可能性がある一方で、いや、もっといいよ!!という声は現れにくくなるでしょう。
それに対しての考慮という面で、解説を1週間後に投稿してみました。少なくとも作品の発表直後にこちらからさらに投げてしまうと、もうなにも会話が生まれません。
完全に一方向の表現というものは決してないでしょう。
僕の結論としては、僕のような何処の馬の骨かわからない者は黙って投げまくるに尽きるのかなと思ってます。と言いつつ今回実験的にこのようなものを書きましたが。
表現という者は、社会全体で正解を定めていくものなのかなと、改めて考えました。
一応、これも出版甲子園実行委員会日記に寄稿する文章ということにしてしまいました。
僕の入ってる団体のメンバーが毎日何か書いてるマガジンです。ぜひご覧になってください。
本もっとたくさん読みたいな。買いたいな。